パラグアイに行こう

パラグアイの首都アスンシオン市からの発信です!!

アスンシオン首都圏 日系社会

前原城(御影城)-01・築城にあたり

世界は広い、思わぬ場所に意外な物が在るのですが、日本以外の場所に本格的な城郭があるのはこの前原城だけだと思います。城主の前原さんに伺いますと本当は「御影城」(みかげじょう)というのだそうですが、通称の前原城で有名になってしまったそうです。アスンシオンから約30キロ南に行った地点、そこに前原の農場があります。農場の一角、何故か小高い丘があり、そこに城を築城しました。日本式の本格的なものです。

築城を語る (2013年12月25日)
お城の本が2014年 1月15日に発売となります。価格は1470円です。

著者前原 深 著 / 前原 弘道 著 
出版社中央公論事業出版 
発売予定日2014年01月15日 
発行形態単行本 ISBN9784895144100 (4895144100)
税込価格1,470円

鬼建式 (2002年 9月15日)
パラグアイに日本の城が築城されつつあります。お話を伺いますと日本の川之江城ならびに安房館山城を模して建築されているそうです。

鯉幟が五月の秋空に翻りました。(2006年05月14日)
今日は愛媛から送られて来た鯉幟約50本を城に飾りました。今日は爽やかな秋晴れの天気となり、こいのぼりが見事でした。秋晴れかつ五月晴れに映える城というのはここだけでしょうね。


パラグアイに福山出身「城主」(中国新聞)

一国一城の主。戦国時代以来、日本男児の夢だろう。現在では、数十年ローンのマイホームを手に入れたサラリーマンの自嘲(じちょう)を含んだ言葉としても使われるようだが―。文字通り一城の主となった広島県人が南米パラグアイにいる。「朝早く登るとね、靄(もや)が出て、山のテッペンがちょうど瀬戸内海の島々みたいに見えるんよ」。低い山々が点在し見渡す限りの草原の岩山に三層四階の城がそびえる。天守閣で故郷の風景に思いをはせるのは、福山市出身の”城主”前原弘道さん(68)。一九五八年、二十歳の時、家族七人でパラグアイへ移住。新天地に夢をかけた。”養鶏王”。約半世紀を経て、前原さんはそう呼ばれる。六十五万羽を所有し、国内に流通する鶏卵の七割を出荷する「前原農商株式会社」の社長である。首都アスンシオンから南東約三十キロのイタ市まで約一時間。馬車が行き来する道を前原さんの運転するベンツが走る。赤い土に目が慣れてきたころ、前原城こと「御影城」がその白亜の城壁を浮かび上がらせる。「はっきり言って城を造るなんて愚の骨頂。泥棒も多いこの国では目立たないようにするのが当たり前。けど…」。前原さんの脳裏に築城に執念を燃やした父、深さんの姿がよみがえる。重機もなく、クレーンで畑から岩を掘り出す危険な造成作業。十年かけて築城予定地の岩山周辺に公園や道を造った。しかし、深さんは事故で九五年に八十二歳で死去。遺志を継ぎ、前原さんが翌年、本格着工した。建築会社との交渉や設計などの調整で毎年訪日。日本から三回、職人を招いた。瓦は”愛媛の菊間”とこだわり、自らとび足袋を履いて天守閣の屋根をふいた。着工当初に建てた城門前の父の墓が見守った。八月、日本から最後の瓦が到着。あと一部の屋根をふけば、親子二代の夢が二十年越しにかなう。「親父の魂はここから逃げんと思う。けど、一目見せてやりたかった」と城を見上げる。現在は、所有する四万五千ヘクタールの土地で牧場経営に乗り出した。養鶏王、城主、そして大牧場主へ。一移民の夢は南米パラグアイの大地で完全に花開きつつある。 

本紙記者がのぞいたパラグアイ日系社会=来年移住70年=親子2代の夢=前原城(2005年 8月17日・ニッケイ新聞)
パラグアイ移住の嚆矢となるラ・コルメナ入植が一九三六年に始まり、来年古希を迎える同地日系社会。ピラポ、ラパス(旧フラム)という戦後移住地もそれぞれ、四十五、五十周年と節目の年を迎えたパラグアイ日系社会を訪ねた。一国一城の主――。戦国時代以来、日本男児の夢といえる。〃文字通り〃その夢を叶えた人物が首都、アスンシオンから南東約三十キロのイタ市にいる。「朝早く登るとね、靄が海みたいになって、山のテッペンがちょうど瀬戸内海の島々みたいなんよ」低い山々が点在する草原にそびえる三層四階の城。天守閣に立ち、故郷に思いを馳せるのは〃城主〃前原弘道氏(68、広島県出身)。一九五八年、二十歳の時、家族七人でパラグアイへ。当初、ラパス(旧フラム)移住地へ入植予定だったが、母親である政子さんの体調が悪くなり、「開拓生活より、病院や薬局のある町の近くの生活を選んだ」。始めたトマト栽培も軌道に乗り、徐々に土地も増やしていったが、投機栽培に将来の不安を覚えていた前原さん。当時、よく訪れていたブラジルでの成功者が養鶏農家だったことが転向のきっかけとなった。現在、六十五万羽。国内消費七割の鶏卵を出荷する前原農商株式会社を経営する。飼料から雛の飼育、販売まで一手に行い、従業員は三百人を超える。自宅前に建つ鶏魂碑を前に「鶏に食べさせてもろうとるから」と、年に一度の鶏魂祭も欠かさない。「はっきり言って城を作るなんて愚の骨頂。泥棒も多いこの国では目立たないようにするのが当たり前。けど…」。前原さんの脳裏に築城に執念を燃やした父の姿が甦る。重機もなく、手動のクレーンで畑から岩を掘り出す。人夫も嫌がる危険な造成作業。十年かけて築城予定地の岩山周辺に公園や道を作った。「何かこの地に残せたらっていう気持ちがあったんだろうね」しかし、深さんは不慮の事故で一九九五年に死去。八二歳だった。父の意思を継ぐことを決意した前原さん。翌年から、本格着工した。建築会社との交渉や設計などの調整で毎年訪日。日本から三回、職人を招いた。瓦は〃愛媛の菊間〃とこだわり、自ら鳶足袋を履いて天守閣の屋根を葺いた。着工当初に建てた城門前の父の墓が見守った。総工費は「いくらかかったか分からない」一間の寸法がやや短いが、千葉の館山城、愛媛の川之江城と同じ設計。通称前原城こと〃御影城〃は、着工から十年を迎えた今年、その白亜の姿を大草原に輝かせた。今月、日本から最後の瓦が到着する。三層四階の一番下の屋根を葺けば、親子二代の夢が二十年越しに叶う。「親父の魂はここから逃げんと思う。けど、一目見せてやりたかった」。深さんの死を知らない知人からの手紙を墓前で読んだという前原さん。眩しそうに城を仰いだ。「完成後はパラグアイでの日本人の足跡を残す移民資料館にしたい」。そうすれば、人が来て、地元も潤うのでは――。父の思いでもあった。現在は、所有する四万五千ヘクタールの土地で牧場経営を手掛ける。養鶏王、城主、そして大牧場主へ。一移民の夢は南米の大地で完全に花開きつつある――。


パラグアイで日本の城造り(スポニチ 2003年 5月 4日)

南米のパラグアイで養鶏会社を経営する日本人移民、前原弘道さん(65)=広島県新市町出身=が、異国の地でこつこつと日本の城造りを進め、本格的な天守閣がこのほど姿を現した。首都アスンシオンの南東約30キロのイタ市にある城は、養鶏場近くの岩山にそびえ、鉄筋コンクリート造りで三層四階建て。日本の設計会社から設計図を手に入れるとともに瓦なども輸入、自ら「日曜大工」で建設してきた。総工費は1億円余りとみられる。築城は1996年に他界した父、深さんの遺志を継いで続けたもの。前原さんは現在、パラグアイの日本人会連合会の名誉会長。「裸一貫で移民して成功したことを形に残し、神に感謝したい」と語る。城は「今後一、二年で内装を完成し、日本人移民の資料館にできれば」

天守閣に瓦をふく=パラグアイの築城(ニッケイ新聞 2002年 9月28日)
当市近くのイタ市の前原農場に、現在(日本の)城が建てられている。今月初めから天守閣部分の瓦葺きが始まった。日本の愛媛県から職人が二人来パ、作業をすすめている。天然の岩山にそびえ立つ三階建ての城。故前原深さんの遺志を継いだ息子の弘道さん(前原商工社長、アスシオン)が、親子二代で築城を続けてきた。天守閣を葺いたあと、周囲の工事用足場を取り外し、城の姿が一望できるようになるという。日本から来た職人は、越智恒弘さん(五一)と越智新次さん(二七)。恒弘さんは日本瓦の本葺きを専門とする三十年のベテランで、これまで日本各地の城、社寺、仏閣の葺き替え、修理を手掛けてきた。「南米に立派な城を築きたい」と意気込みを語る。瓦葺きにさきだって日本から五千枚の瓦がコンテナで運ばれた。重さ約二十トン。愛媛県の菊間瓦。約七百年の歴史を持ち、皇居の建物にも使用されているという。城郭建築に携わる日本の藤瓦興業株式会社(濱田成一社長)が製作した。濱田社長は昨年十一月、瓦の寸法計測のため来パ、瓦葺き開始に合わせて、今回再びやって来た。瓦の桟も日本から運ばれた。「こちらの木は少し固いので、日本から運び入れました。瓦は全部で一万五千枚、六十トンくらいになります」と濱田さん。「こういう総瓦葺きは、日本以外ではパラグアイだけかもしれませんね」と前原さんも満足そうだ。 今回の工事で葺くのは天守閣のみ。来年の同じ時期に天守閣以外を葺いて、瓦葺きを完了する予定だ。

パラグアイ・前原城・あと瓦ぶきだけ-日本の「菊間を使う」-「絶対手抜きをしない」(2001年12月・ニッケイ新聞)
パラグアイ、アスンシオン市から三十キロ離れたイタ市の前原農場に建設中の日本の城が、残すところ瓦ぶきのみとなった。城は熊本城、会津若松城などの復元を手掛けた著名な技師が設計。「設計師の名に恥じない立派な城を」と最後まで手抜きを許さない〃城主〃の前原弘道さん(前原農商株式会社社長)は、瓦に愛媛県の〃菊間瓦〃を使用する。今後の瓦ぶきにあたって日本から濱田成一さん(藤瓦興業株式会社代表取締役)がパラグアイを訪問、城を視察した。愛媛県越智郡菊間町にある藤瓦興業株式会社は創業明治十五年、菊間瓦窯元で文化庁認定の工場だ。七百五十年の歴史と伝統がある菊間瓦を製造、施工している。菊間は三州(愛知)、奈良、淡路と並び、日本の有名な瓦産地の一つだ。濱田さんの会社はこれまで、国宝の松山城はじめ、広島、福山、小倉、中津、唐津、島原、対馬、今治、川之江の城郭建築経歴がある。城以外にも西日本を中心に約百五十社寺の新築、改築に携わってきた。濱田さんの父宗興さんは功績が認められ、九六年、卓越技能士(労働大臣)、九九年、黄綬褒章を受賞した。濱田さんと前原さんの出会いは十二年前。築城の構想を話した広島大学の教授が前原さんに濱田さんを紹介した。最初、日本で城の話を聞いた濱田さんは、「南米で本当に城なんて建てられるのだろうか」と信じることができなかった。電話やファックスで情報を得ても実感がわかなかったので八年前、ついにパラグアイに渡り実際に自分の目で確かめた。前原さんの熱い思いと予想以上の環境のよさに惚れ込んだ濱田さんは、即座に城建設に協力することを約束した。五年前に開始した工事は、南米に職人がいないこともあり途中、作業が中断するなど様々な困難に見舞われた。瓦ぶきの段階に至ったことは二人にとって言葉で言い尽くせない喜びだ。
瓦ぶきは雨季を避けた二期に分けて行う。濱田さんと瓦師三人がパラグアイを訪れ工事に着手する。第一期工事は来年八月、第二期工事は再来年九月からを予定している。瓦ぶきが終了すれば、遂に城の完成だ。前原城主が天守閣から広大な南米の地を眺める日は刻々と近づいている。

パラグアイに城を建設 広島出身の前原さん (中国新聞・2002年03月07日) 
広島県新市町出身で南米パラグアイに移住し、日本の城を現地に建設している前原弘道さん(64)が一時帰国し、六日、広島県庁で近況を報告した。城は日本文化を伝えようと、亡父から受け継ぎ、私財を投じ二十年掛かりで建設。来夏には完成する見通しという。 前原さんは四十三年前に父の深さんに連れられ家族八人で首都アスンシオン郊外に移住。約十六ヘクタールの農地を購入し、野菜栽培を始めた。次第に農地を拡大し、現在、前原さんは約五百ヘクタールの養鶏農場のほか、スーパーや金融機関も経営する。 深さんは生前、「日本文化の象徴である城を、自らの汗を吸い込んだ南米の大地に残したい」と夢を描いた。整地に取り組んでいた九六年、交通事故のため八十二歳で他界した。「今の自分があるのは父のおかげ」と受け継ぐのにためらいはなかった。 熊本城や会津若松城の復元作業に携わった専門家を日本から呼び寄せたりし、農地の高台に高さ十七メートルの鉄筋コンクリート三層四階建ての天守閣が姿を現した。近所の人は「前原城」と呼ぶ。現在は総仕上げの瓦ぶきを待つだけとなっている。 今回、瓦の買い付けのため一時帰国した前原さん。城の写真を手に「完成したら無料で一般公開します。それが父の遺志に沿う」と数億円を投じた親子の夢の実現への決意をあらたにしている。 

愛媛県東部・川之江市にある川之江城・復興天守閣は以下の通り。確かによく似ていると思います。川之江藩は江戸期僅か6年間だけ存在した藩で、明治期までは幕領だったそうです。

川之江城

館山城

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