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パラグアイの首都アスンシオン市からの発信です!!

エッセイ・コラム・独り言

思い出:簡単な自分史-01 (小学校卒業まで)

現在はパラグアイに住んでいる当方ですが、東京で生まれ、以来国内各地そして果てはパナマ、ブラジルまで色々な場所に住みました。引越しを何回やったのか数えるのも大変です。このページを立ち上げる97年までの出来事を思い出しながら書き留めてみます。要するに簡単な自分史です。よく自分史を書くと1冊分くらいの本の量になると言われますが、確かにかなりの分量になってしまいました。ただ人生数十年生きて来て思い出せない事が多くなり、記憶があやふやになり、間違って記憶している事もあるかも知れません。残念ながら小さい時の記憶は本当にぼんやりとしたものになってしまっています。そしてもっともっと色々な出来事があり、ここに書きとめておくべき大切な事があったように思いますが今となっては遥かかなたの昔、記憶からも消え去った事が多いと思います。そして、個人の嗜好の為、印象に残っている旅行の話、地名そして電車と食べ物の話、更には苦手であった英語の話などが多くなっています事あらかじめご了承願います。他のページ同様、興味のある所だけ拾い読みしていただければ良いと思います。

このページでは東京世田谷で生まれてから幼稚園に入り中野に引越しをし、小学校入学それから九州福岡県大牟田市に転校しそして卒業までを書いています。当時は現在と比較してみますとのんびりとした時代のように感じます。また地方色が豊かであったようにも思います。

なお、「世界を放浪してその果てにパラグアイに住み付いている」と誤解されている方も多いようですが、旅行(最長50日:学生時代の北米:所謂卒業旅行)はしていますが、放浪の経験は無く、当地に来る際も直前までは日本企業の社員でした。何時かはたっぷりと時間を作り、半年か一年くらい南米の各地を放浪してみたいものですね。

00・東京都世田谷区で生まれる
生まれたのは東京都世田谷区奥沢という所です。東京23区の中では一番広い世田谷区ですが、その一番東端、目黒区と大田区に近い奥沢で生まれました。両親は共に横浜市の出身で社会に出るまでは二人ともずっと横浜で過ごし、その為に当方も本籍地は父の出身地である横浜市磯子区となりました。当方が生まれた当時、父はごく普通の会社員で日本橋まで通っており、勤務している会社の社宅がここにあり数年前に引っ越して来ました。現代ですと、ものすごい一等地に住んで・・と思うでしょうが、当方が小さかった時には世田谷区は田園地帯まだまだ田舎というイメージであったように思います。長い歳月の間に当時の風景は一変し、社宅があった一帯は現在は東急の研修施設になっています。また、当時は病院で産むよりもお産婆さんの助けで産む事が多かったようで、当方も自宅出産で五体満足健康に産まれたそうです。生まれたのは梅雨の終わりに当たり、乳児の時には暑い夏を過ごす事になり、クーラー等はまだ家庭には無い時代ですので、暑さ対策を色々と考え母はかなり育児に気を使ったようです。

(地図:生家付近図)

(写真:現在の様子:2005年撮影)

現在の上空からの写真を貼ります。左上にあるのが自由が丘駅、緑の線が区界で上が目黒区で下が世田谷区になります。下に目黒線の奥沢駅があります。

01・名前
生まれた当時はまだ100歳近い曽祖父が健在で孫の誕生をたいそう喜んだそうです。そして祖父・祖母と一緒に赤ちゃんの誕生を祝いに横浜から我が家にやって来ました。その際に長男でもあり、名前に関しては祖父が「秀一」という案を持って来たのです。「秀」の字は元来は「稲穂に沢山花が付いている状態」を示す文字であり、「田中」姓にはふさわしい文字という事で熟考して来たのでしょう、とても良い名前であるように思います。父はこの案を採用でずに天皇陛下(当時の昭和天皇)から一字をいただき、「裕一」と命名しました。ただ読み方は何故か後で決めようという事になったようで、ふりがな無しで届出をし(このような届出がまかり通る良き時代でした。)、取りあえずは「ゆういち」と呼ぶ事にしたそうです。後年、母によりますと姓名判断の字画では「秀一」もしくは「ゆういち」であれば「祐一」またどうしても「裕」を使いたいのであれば一文字で「ゆたか」と読ませた方が良かったのに・・と話していました。母は直人とかいうように「~人」というような名前を付けたかったそうですが、自分は産後で伏していて、その間に名前が決まっていたと話をしていました。なお、現在でもよく「祐一」と間違われる事がよくあります。(グーグルで検索しますと当方に対して裕一と同じくらいヒットします。)「田中裕一」とどこにでもあるような名前ですが同姓同名の方に会った事はありません。「田中裕二」という方とは川崎製鉄に勤務されている方とお会いしました、また爆笑問題の小さい方の方もこの名前ですね。

02・曽祖父・祖父・父

父方の曽々祖父は名前は虎蔵さんと言って長野県松代付近で百姓をしていたそうで、明治維新の際に「田中」姓を名乗ったのだそうです。言い伝えによりますと先祖は織田家の傍流で尾張からこの地に流れて来たのだそうです。(かなり怪しい話だと思っています。)従いまして紋所は織田紋と言われている「「瓜に唐花(かにからはな)」です。曽祖父は明治維新後門前町として賑わいを見せていた善光寺の参道に宿屋を開業しました。明治になり士農工商の身分制度の制約もなくなり商売に転じたのでしょう。そして祖父は金沢の医学部で勉強し医師(内科医)となりました。(正確には医科大学になる前で医学専門学校と呼ばれていました。)当時は長野から金沢まで鉄道が開通しておらず、直江津から船で金沢まで行ったと話していました。若い時代には船医をやっていたそうで、第一次世界大戦の勃発の時(大正3年:1914年)には当時はドイツ軍が進軍していたポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)のロレンソマルケス(現・マプト)に停泊していたそうで、敵国という事でドイツ軍に捕縛されてしまったと話していました。しかしながら船医は船長と同様に扱われ待遇が良かったそうで、行動の自由はなかったが、旨い物を毎日食べていたそうです。欧米を見聞しており当時としてはかなりハイカラであったように記憶しています。飲むお酒も洋酒それもウィスキー等では無くジンとベルモット(ドライ)のカクテルというものでした。日本に戻り各地で医師の仕事をし、祖母とは宇都宮勤務時代に知り合い結婚、その後横浜に落ち着いて大正11年(1922年)に病院を開業したそうです。(なおこの病院は現在も同じ場所にあります)祖母は栃木弁の尻上がりで話をし、栃木名物のけんちん汁を得意料理にしていたのを思い出します。名前は「せん」と言いますが。本人の説明では「本当は清(せい)であったのを戸籍係りが間違えて「せん」になった」とのこと、母方の祖父も本来は水野健太郎であったものをこちらも間違えて「水野健蔵」となったと話をしていました。昔の戸籍係はかなりいい加減であったようです。

(写真:一番左が祖父、右端が曽祖父)

(写真:田中医院の前で:中央が祖父、右端が父)

(写真:祖父と父)

瓜に唐花

父の田中満は1920年 2月 8日横浜市磯子区で五男として生まれました。長男・武(夭逝)、二男・篤(夭逝)、三男・洋、四男・徹、その後妹と弟が誕生したので、実質3男、5人兄弟の真ん中として育ちました。年齢が近い事もあり、兄弟喧嘩、おかずの争奪戦などは厳しかったそうです。小さい時には近くの海で過ごす事が多く水泳は特に背泳が得意でした。当時の神奈川第一中学(現在の希望丘高校)の4年の時に旧制高校、新潟高校を受験し合格晴れて憧れの旧制高校生になりました。当時は飛び級が認められており、中学は5年ですが、4年終了時に受験する事が出来、本人は四高(金沢)を受験したいと考えていたのですが、当時の旧制高校はエリートで入学の倍率は非常に高く4年終了時点ではとくにかく受かり易さを求めたそうで、新潟高校を受験したのだそうです。文科と理科に分かれており、更に甲(英語)乙(ドイツ語)丙(フランス語)に分かれて、文乙に入学したのだそうです。要するにドイツ語が第一外国語であったという事です。受験は英数国漢・暗記物の五科目であったそうで、生物を受験し、「亀の甲羅を剥いだ絵を描け」という問題があり、「これは脊椎動物である事を示すのが問題の意図」と判断し、立派な骨を描いた等と話していました。高校では弓道部に属し、主将となり、大会で優勝したと自慢していました。旧制大学は東京帝国大学経済学部に進学しましたが、戦争(太平洋戦争)が始り、卒業が繰り上げとなり、1941年12月に卒業しています。旧制大学を21歳で卒業というのは余り例が無いと思います。どのような勉強をしたのか尋ねますと「統制経済」と答えていました。戦時体制で普通の経済学では無かったようで、マルクスなどは全く勉強しなかったと言っていました。とにかく就職という事で当時の花形企業である、三井鉱山と満州鉄道を候補とし、三井鉱山に入社する事を決めたそうです。会社勤めをする間もなく、召集され、当時の本籍が長野であった為に松本連隊に入隊したそうです。本人は海軍を希望したのだそうですが、マストに登る事が出来なかったそうで、仕方が無く陸軍に入隊したそうです。戦争が激しくなり行先は当初想像していた大陸では無く、南方・トラック島ででした。トラック島は米国に余り相手にされず、戦争中は主に食べる事で必死であったようです。話を聞いているとほとんど戦闘などは無く、生き抜く事に食料の確保に専念していたようです。戦争が終了し捕虜になり、英語が多少は分かるという事で通訳をし、残飯等を食べて飢える事無く帰国したそうです。その後は平凡ではありますが三井の一員としてサラリーマン生活を全うしました。引退後は図書館に通い、武蔵野を散策し、仲間と麻雀をし、碁会所に通いと結構毎日忙しく過ごしていました。さすがに80歳を超えてからは家で過ごす事も多くなりましたが2005年2月、亡くなる前日は母と一緒に近くの天麩羅屋で食事を摂るなど元気に過ごしていました。

03・育児
当時は紙おむつ等は勿論、家庭には洗濯機という便利なものが無いので、母は布のおむつを毎日沢山の量を洗濯して大変であったと思います。物干しに大量のおむつを干す時には昔習った薙刀が役に立ったと話していました。物がまだそれほど溢れていない時代、電化製品が普及する前の主婦は重労働であったと想像します。当時、テレビで米国のホームドラマが人気を集めたのはその明るく楽しい内容と電化製品に囲まれた豊かな生活への憧れがあったのかも知れませんね。とにかく大きな病気もしないで順調に育ったようです。

04・電車が大好き

最寄の駅は東急の自由が丘駅(東横線・大井町線)、家は自由が丘駅と緑ヶ丘駅(大井町線)の間にありました。建物がぎっしりと並んでいる今の風景からはとても想像する事は出来ませんが、駅の近くでも畑がポツポツとあり、のどかな田園風景が広がっており、当時は家の前から畑越しに電車が通過するのがよく見えました。赤ちゃんの時、家の前は九品仏川淵の細い砂利道で通る自動車もほとんど無く、母は何時もそこに乳母車を置き電車を見せていたそうで、毎日長い時間、飽きもせずに電車が通過するのをただひたすらに見つめていたようです。この為なのか電車好きになり、小学生の時に一番見ていた本は時刻表であったと思います。東京-九州間のブルートレインは特に好きで、当時は東京から鹿児島までの全駅を覚えていように思います。その後も電車には興味があり、数年前にブエノスアイレスで丸の内線の電車を見た時には本当に嬉しかったですね。余りに熱心に見ていたら車掌が来て、車掌室に乗せてもらいました。


(写真:電車が大好きであった頃・大井町線の電車を眺めている)

05・自由ヶ丘

自由ヶ丘駅は目黒区と世田谷区の区界に位置し、住んでいた場所から駅まで歩いて5分でした。現在駅名は「自由が丘」と改称されていますが、当時は「自由ヶ丘」と書いていました。現在ほどの賑やかさはありませんが、東横沿線では賑やかで栄えている街であり、国全体がまだまだ豊かでは無く、豪華さはありませんでしたが、どことなく上品さが漂う街でした。戦後復興期に「自由ヶ丘夫人」という映画があったそうで、それ以降、山の手の高級住宅街というイメージが一般にも定着したようです、その後は隣駅の田園調布の方がずっと有名になってしまいましたが。ご婦人たちの口調もいわゆる「ザーマス」言葉が実際に使用されていたように思います。教科書の日本語に近い、促音が無い綺麗な言葉が使われていました。駅の横にはこじんまりとしたデパートのような場所があり、母はそこで毎日の買い物をしていたように記憶しています。当時、駅の改良工事があり、位置が少し移動して改札口まで若干遠くなってしまったのを覚えています。また駅の近く世田谷区側に料理教室・魚采学園なるものがあり、母が少しの期間通っていたようにも記憶しています。とにかく何となく明るく華やかで楽しくなるファッショナブルな街であったように記憶しています。

06・モンブランと亀屋万年堂
有名な洋菓子店である「モンブラン」にはよく連れて行ってもらいました。今は有名な老舗として全国的によく知られているお店ですが、当時はごく普通の地元密着のお店であったのでしょう、ただ洋菓子店自体がまだまだ珍しい存在であったと思います。そして包装紙がとても綺麗であったのを覚えています、当時から有名な画家である東郷青児氏の絵を使っていたのでしょう。今ではどこにでもあるこの店と同じ名前の「モンブラン」という洋菓子はこの店が発祥と聞いています、栗をベースにクリームたっぶりのお菓子で、このお店の名物ですが、実際に一番食べたのはシュークリームかエクレアであったと思います。今、自由が丘と聞きますと思い出すのはこのお店ですね。そしてもう一つ有名なのが和菓子の「亀屋万年堂」、王選手が「ナボナはお菓子のホームラン王です。」というコマーシャルを放映して以来有名になり、現在は大きな店を構えています。この当時は町の小さなお店という感じでした。

07・九品仏
大井町線で、自由ヶ丘の次に九品仏という駅があります。これで「くほんぶつ」と読みます。駅のすぐ近くに九品仏浄真寺がある事でこの名前が付いているのですが、駅周辺は如何にも世田谷区らしい静かなたたずまいで、駅舎も現在にいたるまで非常にシンプルなものです。このような駅舎を見ているとJRは何故あれほど大掛かりな駅舎にするのか、お金がかかり昇降に不便なだけなのに・・と考え込んでしまいます。さて、この浄真寺は豊臣秀吉の北条攻めの頃、奥沢城があったところに、徳川四代将軍家綱の延宝6年(1678年)に建立された、歴史的な由緒有るお寺だそうです。小さい時はここへはよく遊びに行きました、一番楽しかったのは秋の銀杏取り、銀杏の木が多く、沢山取れたの思い出があります。自由が丘駅は東横線が開通した当初は九品仏駅という名称で、大井町線(最初は二子線、途中、田園都市線、そしてまた現在は大井町線)が開通して近くの駅(現在の駅)にこの名前が付けられ、自由ヶ丘に変更になった経緯があり、自由が丘駅からも歩いて直ぐです。散策にはもってこいの場所であり、東京にお住まいの方には是非訪問される事をお勧めします。

(写真:自由ヶ丘に住んでいた頃)

08・多摩川
自由が丘駅から横浜へ向かいますと次が田園調布そしてその次は多摩川となります。現在の多摩川駅は当時、多摩川園前と呼ばれていました。東横線の開業当時は丸子多摩川でそれから多摩川園前、そして最近まで多摩川園、そして現在の多摩川と名称を変えています。東急は名前を変更するのが好きなようです。駅名の通り直ぐ南側に多摩川があり、ここが神奈川県との県境になっています。当時は結構水も綺麗で父に連れられて水遊びに来たのを覚えています、川には小さい魚がたくさん泳いでいた記憶があります。また当時は駅前に駅名の由来となっている遊園地・「多摩川園」があり、ここに連れて来てもらうのが最上の喜びであったようです。

09・本籍は横浜市
両親は横浜市の出身で当方の本籍も横浜市磯子区です。当方もその影響で「横浜人」?という意識があるせいか、ひいきのチームは横浜ベイスターズ(小さい時から)です。今でこそ東京と一体化している横浜市ですが、元来は全く別の町として発展した歴史があり、横浜の人達は東京とは違う、現在でも心の底では「横浜はハイカラ、東京は田舎」という意識があると思います。本来の横浜は文字通り横の浜、現在の高島町から桜木町、関内辺りになります。開港の時は武蔵国・久良岐郡横浜村で、母方の爺さんからはそのまた爺さんが当時の横浜村の住人で、爺さんから「爺さんから聞いた話」として開通したばかりの陸蒸気を弁当を持って見物に行った話を聞きました。明治維新後の横浜は日本で最も発展している街であったことでしょう。なお、当地では道府県人会があり、各県それぞれに活動していますが、迷わず神奈川県人会に所属しています。

10・横浜中華街
父方も母方も親戚一同の会食は中華街というのが定番でした、なお「横浜中華街」と呼ばれているこの街、父母や叔父達、横浜の人達は中華街とは呼ばずに今でも「南京町」と呼んでいます。小さい時に当時一番出掛けたのは鴻昌本店、親戚等の集まりもここでした。揚げ物等、油が多い料理が好きでは無く、スープ以外は全く食べずに泣いていた事もあったようです。少し大きくなりますと友人達と海員閣という店に行っていました。値段は安く美味しいのですが、洗濯物がその辺に掛かっているような全く気取りの無いお店でした。大学時代も後半になり、この店に行きますと雑誌等に紹介されて何時の間にか「超有名店」になってしまい、東京の人が押し寄せ長い列が出来るようになっていました。(現在も長蛇の列だそうです。)最近では少なくなったでしょうが、東京の人達は注文する料理も普段食べているラーメン屋感覚で選んでいるような印象があります、「チャーハン、ラーメン、餃子・・」。そして、家族でこの頃に時期に行ったのは同発新館でした。横浜では昔から口コミでどこの店が美味しいと情報が廻っていましたが、雑誌等で取り上げられるようになってからは多くの人が押し寄せ、全体的に値段が上がり、逆に味は日本人好みに変わり落ちてしまったように感じ残念な限りです。その後、現在では有力店が東京に支店を持つ事が多くなり、現在は近くの聘珍樓( へいちんろう) に行くようになっています。またシウマイをよく買って自宅で食べていました。全国的には崎陽軒が有名ですが、我が家では横浜では元祖とも言える「博雅亭のシウマイ」を食べていました。崎陽軒のものと比較するとシウマイが大きくホクホクした感じでした。そして粥もよく食べました。これも大学生になって以降ですが、安記と謝甜記(しゃてんき)にはよく通いました。実際に中華街の中で一番行ったのはこの謝甜記だと思います、ここの三鮮粥と海老餃子は美味しかった。現在アスンシオン市内の職場の近くにミニ中華街(7軒ある)があるので、昼は専らここで済ませています。素朴さが残るレストランが並び、小さい時の中華街を思い出します。職場のごく普通のパラグアイ人の仲間を誘って連れて行き、多くの中華ファンを作っています。小さい時のこの影響で、食事の好みは和食よりも中華となってしまいました。


上記の文章を書いて以降、2003年に久しぶりに横浜中華街に行ってみました。目立つ場所は新しい建物が建ち、昔ながらの豚の頭や叉焼が店先にぶる下がっているような雰囲気は無くなり、全体的にはかなり小奇麗な感じになっていました。上記に記したお店はどこも繁盛しているようで、同發新館に入ったのですが、中国音楽の生演奏をやっていました。海員閣、謝甜記等は当時そのままの店構えでした。人は多く居ましたが思った程の活気はありませんでした。昔ながらの街で、自動車の走行には非常に不便であり、駐車料金も非常に高く、家族で気軽に楽しむという感じではありませんでした。地下鉄の工事が進んでおり、2004年には開通、渋谷・横浜から簡単に中華街に来られるようになるそうです。そうなりますとまた活気が出て来る事でしょう。

11・横浜駅
横浜駅というのは三代目だそうで、当初は現在の桜木町駅で、その後高島駅に移り現在の場所に移ったのは1928年なのだそうです。それ以前、あの付近には平沼駅だの神奈川駅というような駅があったようです。小さい時に横浜駅に行きますと東口が表口、西口は裏口という感じでした。市の中心部側にある東側が栄えていたのは当然であったと思います。現在の横浜駅はJRの各線の他、京浜、東急、相鉄、地下鉄が乗り入れかなり大規模な駅となっており、東口と西口はかなり離れています。現在に至るまで東口と西口はライバルとして横浜駅の表口としての主導権争いをして来たように思います。親戚の家などに行く際には東急東横線から根岸線に乗り換えるのですが、その際には比較的空いている桜木町駅を利用していました。その内に通しで切符を買い乗り換える時には「横浜駅」と決められてしまいましたが、現在に至るまで桜木町駅まで切符を買い、JRの切符を買い直して利用しています。しかしながら東横線の横浜駅-桜木町駅が廃止になる事が決まり、これからは横浜駅で乗り換えをしなければならなくなったのは残念な限りです。

12・磯子
父の実家は横浜市磯子区でした。横浜市の中でも余り目立たない区ですが、臨海地帯で京浜工業地帯の中核地となっています。現在JR根岸線が区の中央部を走っていますが、あの辺りは昭和30年代中頃までは海でした。父の話ではそれまでは綺麗な浜が広がっていたそうです。横浜は綺麗な海を埋め立てて工場用地として造成し大企業に売却し、そのお陰で日本は経済成長を遂げたのですが失った代償も大きかったのかも知れません。ライバルの神戸市が地続きの埋め立てにせず、人工島にしてそれまでの海岸を保護したのも見ますと、「あのように出来なかったものか」と悔しい気持ちにもなります。埋め立てられた場所も現在ではそれまでの土地と一体化していますが、海岸には工業地帯が依然として残っています。何時の日にか自然で豊かな海が戻るのではないかと期待しています。 

13・東急電車
出掛ける際に利用するのは当然のことながら、東急電車を利用していました。当時の最新型は緑色の急行電車、ちょっと流線型になっている下膨れの電車でした。普通電車は角張った形の青と黄色のツートンカラーであったように記憶しています。また、両親共に横浜の出身でしたので、親戚はほとんど皆横浜市に住んでいて、桜木町終点まで何時も利用していました。近々この東横線・横浜-桜木町間が廃線となるそうですが、思い出の路線が消えるのは残念な限りです。また街に行く時は何時も渋谷に行きました。現在は日比谷線、南北線など色々な電車が東横線に乗り入れていますが、当時は渋谷に一度出てから乗り換えるしか方法が無く、どこに行くにも渋谷に行っていました。小さい時から馴染んだ渋谷の街ですので、就職する時に渋谷に本社がある会社を選択したのは偶然では無いように思います。

14・プラネタリウム
東急東横線に乗り渋谷駅に着きますと目の前にぷらねたプラネタリウムの丸い屋根が見えました。小さい時にここに連れて来てもらい感動した記憶があります。幼い時には本当に宇宙のドラマを見ているような気になったのでしょう、母にねだり天文の図鑑を買ってもらい、眺めていました。その後も何冊か買ってもらい、最後のは小学校高学年用のもので、現在も持っていますが内容はしっかりとしており、今でも時々眺めています。天文に関してはこの時の知識のお陰で大学の教養課程まで充分に通用しました。星を眺めるのは楽しいものです。

15・銀座
自由ヶ丘から銀座までは現在の感覚では非常に近いと思いますが、当時は「銀座」は特別な場所で「銀座に行く」という時にはピンと背筋を伸ばしおめかしして出掛けるという感じでした。当時から渋谷もある程度の繁華街でしたがまだまだ格違い、銀座とは比較にならないものでした。銀座に行くには渋谷から地下鉄・銀座線に乗るのですが、黄色の電車に乗って行く気分は最高でした。当時の銀座通りには都電が走り柳並木があったように思います。現在は綺麗に整備されている銀座ですが、当時のちょっと雑然とした華やかさのある銀座が懐かしいですね。

16・海に行く
東京湾で海を見る事はありましたが、本格的な家族で海水浴に初めて出掛けたのは伊豆の網代でした。まだまだ道路整備が十分成されていない時代で、バスに乗って乗り物酔いになり、かなり気持ちが悪くなってしまった記憶があります。自分で乗用車を運転するまでは自動車に乗るのはどうも苦手でした。プールとは違い、外洋を初めて見て、海の大きさ、そして波をかなり怖がったそうです。網代で海水浴をした後には熱海に行った記憶があります。今、地図を見ますと東京から僅か100キロ、すぐ近くなのですが、当時は非常に遠くに旅行したと思っていました。緑とオレンジのツートンカラーの湘南電車に乗るのが晴れがましく非常に嬉しかったのを覚えています。

17・幼稚園に通う
さて特に大きな病気も無く、赤ちゃんから幼児に成長し、幼稚園に入園しました、現在の目黒線、当時の目蒲線・奥沢駅の近くにある教会を使用した幼稚園でした。お揃いのエプロンを着て通っていました。教会に付属した幼稚園でしたので、イエス様の歌等を毎日歌っていたように記憶しています。「諸人こぞりて主は来ませりぬ・・」など意味も理解せずに歌っていた記憶があります、この幼児体験が後にコーラスを始めても抵抗無く入れた要因なのかも知れませんね。特にクリスマスは盛大に祝いその時に歌った「清しこの夜」を聴きますと幼稚園時代を懐かしく思い出します。

(写真:幼稚園に通学:後ろは目蒲線;現在の目黒線) 


(写真:現在の教会・幼稚園・2005年撮影)

18・隣・近所
隣の家には大きなイチジクの木がありました。イチジクの実がなる時期には、うちにもおすそ分けがあり、沢山食べた記憶があります。この当時はどこの家の庭にも何かしらの果物の木、そう「イチジク」、「柿」、そして「柘榴」等が植えられていたように思います。その当時は近所付き合いをしているとそんな、家で出来た素朴な果物を皆で交換して食べていたのでしょう。そして冬になると隣の家の人と一緒に家の前で焚き火をし、その中に芋を入れて食べていました。東京でもまだ当時は舗装もされておらず、砂利の道であったのでしょう。また暇がある時、母が用事で忙しい時にはよく隣の家で遊んでいた記憶があります。まだ貧しいが何となく気持ちが良い近所との何気ない触れ合いがあい、ほのぼのとした雰囲気の中、皆が気軽に肩を寄せ合いながら生きている、そんな時代であり、隣との境も現在主流となっているブロックのようなものではなく、生垣のようなもので声を掛け合い簡単に行き来出来る雰囲気があったように思います。最近、昭和の古き良き時代を懐かしむテーマパークが色々と出来、多くの人が訪問し当時を懐かしがっていますが、物質的な豊かさを得た代わりに何か大切な事を置いて来てしまったのかも知れませんね。

19・テレビ
当時はまだそれほどテレビが普及していない時代ですが、幼稚園の時には大体の家庭には既にテレビがあり、テレビを見て毎日過ごしました。家庭に一台だけですので、皆で見るのが当たり前という時代でした。テレビはまだ高級品で電気製品と言うよりはなにやら高級家具という感じで、観ない時にはほこりがかからないよう上に布を敷き、扉が付いていたように記憶しています。米国の西部劇やホームドラマが人気を集めており、後はクイズ、「私の秘密」「ジェスチャー」そして「シャホンダマ・ホリデー」、「夢であいましょう」などいうバラエティー番組をよく観ていました。

20・引越し
幼稚園の途中で社宅が変わり、中野区東中野に引っ越す事になりました。トラックに荷物を載せてそれに乗り皆で引越しをした記憶があります。世田谷から中野までは、実際の距離よりも遠く感じ、別世界に行くような記憶がありました。これが我が人生の初めての引越しでしたが、その後は今に至るまで引越しばかりしています。この時新たに入居した社宅は新築の一戸建てで、気持ちが良く過ごせました。当時の標準的な家屋であり、短いながらも庭に面して縁側があったように記憶しています、夏は縁側の横で行水をし、縁側というのは庭でも無い家の中でも無いという非常に不思議な空間で、冬などは天気の良い日は蜜柑を食べながら犬と遊ぶなど、心地良い縁側でかなりの時間を過ごした記憶がありますが、現代の住宅ではほとんど作られなくなっていますね。無駄の効用の象徴とも言えるような縁側が大好きですね。そして幼稚園も転園し、通ったのは近くの幼稚園で、こちらもキリスト教の幼稚園であったのですが、最初は前の幼稚園と色々と勝手が違い慣れなかった記憶があります。制服として使用されていたエプロンが嫌で泣いた思いでもあります。転園、転校というのは子供には大変な事だと思います。

21・海苔弁当
幼稚園時代の時に好きであった食べ物は海苔弁当とヨーグルトであったのをよく覚えています。幼稚園には毎日お弁当を持参して行ったのですが、海苔の下に鰹節を敷いて作る海苔弁当が一番の好物でした。母のは特製でそれが2段になっていて、おかずにはよくウインナーがあったいたのを覚えています。そしてヨーグルト、当時は瓶に入っているゼリー状になっていてイチゴなどの甘い味が付いているのが普通でした。幼稚園から戻った後、「お母さんと一緒」を見ながらヨーグルトを食べるのが楽しみでしたね。それにしてもこの「お母さんと一緒」いまだに放送されているのですね。

22・幼稚園生活
幼稚園では何をしていたのか詳しい記憶はありませんが、「おゆうぎ」が嫌いであった事は覚えています。母親の話では幼稚園の運動会で一人だけ動きが違っていたと話をしていました。また運動会の時に万国旗を飾りますが、一番気に入っていたのはブラジルの国旗、この時からブラジルも意識の中にあったのかも知れません。楽しかったのは「福笑い」、目隠しをして顔のパーツを置いて行く遊びですが、気に入っていたのか、その時の情景が残っています。そして相撲、ある時に相撲用のマットで園児達で相撲を取ることになり、最初の一番に勝利したのを覚えています。運動が得意で無く、多分自信が無かったのでしょうが、これは子供心にも大きな自信になったように思います。

23・東中野
住んでいた東中野は中央線普通電車の駅で快速は通過となります。普通電車でも途中に大久保駅があるだけで、2駅で新宿という非常に便利な場所で、何かと言えば新宿に出ていたように思います。駅の南側に住んでいたのですが、大久保から来るとこの辺りは急に高くなっているようで、駅舎と線路は地上から見ますとずっと下の方にありました。線路の上の橋から中野方向を見ますと線路が遥かかなたまで一直線になっているのが不思議でした。この東中野駅から立川駅まで直線というのですからすごいものです。駅前商店街というのはそれほど大きくはなかったような記憶があります。その中で一番利用したのは駅前の青林堂という書店で、そこで何時もマンガを買っていました。お気に入りは「少年サンデー」でした。当時は現在のものと比べますと薄く読み物などがあり、活字が多かったように思います。

(地図:住んでいた付近図)

24・神社
家は環状6号線、山手通りの直ぐ近くで家の正面は神社でした。山手通りも当時はそれほど交通量が多くは無く、今のような幹線道路という感じではありませんでした。のどかな東京の郊外という雰囲気でした。家を出て道路を渡るとそこは別世界、銀杏の並木が見事な神社でした。学校から帰ると一直線で遊びに行くことも多かったですね。秋になりますと銀杏の実が沢山落ちて、それを拾って手がかぶれて痛い思いもしました。その後もどこに越しても神社が近くにあるというめぐり合わせが続いています。

25・缶蹴り・石蹴り
近所の子供たちと何をして遊んでいたのかと言いますと、一番多かったのは缶蹴りであったと思います。すっかりルールは忘れてしまいましたが、鬼が居てその鬼の目を掠めて缶を蹴るというような遊びであったように思います。必要な遊具は空き缶一個、何とも安上がりですが、ある程度隠れる場所と遊ぶスペースが必要で、空き地や神社などでやっていた記憶があります。そして石蹴り、四角か丸をアスファルトにチョークで書き、そこを飛んで行く遊びであったように思いますが、こちらも遊び方はすっかりと忘れてしまいました。とにかく女の子や小さい子も一緒に楽しめる遊びが色々とあり、当時は学年を超えて近所の子供たちが一緒に遊ぶのが普通であったのでしょう。

26・丸の内線
東中野駅の方が近かったのですが、山手通りを反対方向に少し歩きますと丸の内線・中野坂上駅があり、銀座等の中央に行く時にはこちらを利用していました。丸の内線は当時は赤色の電車で、非常にカッコ良く、大好きでした。国鉄(現在のJR)とは全く違う独特の雰囲気、如何にも近代的な都会の電車という印象がありました。一番好きなのは四谷駅、地下からここで一旦地上に出て、今まで暗かったトンネル世界がパッと明るくなる瞬間が好きでした。また、丸の内線の銀座駅、当時は西銀座駅と呼んで別の駅になっていました、従いまして銀座・日本橋方面に出掛ける時には赤坂見附で銀座線に乗り換えていました。赤坂見附の駅は上下になっており、反対側のホームに銀座線の黄色い電車が来るようになっており、よく走って乗り込んだ記憶があります。この駅は今でも当時と全く変わらず、赤坂見附に行きますと当時を思い出します。今考えますと都心に近くて便利で最高の場所ですね。この丸の内線、今では赤い車体の電車は使われなくなり、僅かにラインを残すのみとなっていますが、あの赤い電車自体はブエノスアイレスで今も現役で走っています。最初の頃ははまだ行き先に「中野坂上」とか「後楽園」とか付けたままで走っていて嬉しかったですね。

27・小学校に入学
中野区の区立小学校に入学しました、歩いて10分もかからない近くにあったように記憶しています。小学校のあった場所は昔は近くにある宝仙寺というお寺の境内で、三重の塔がある小高い場所であったそうで、塔ノ山と呼ばれていました。小学校4年生までここで勉強しました。当時は講堂・体育館のような屋内の施設は無く、校庭で入学式が行われました。半ズボンに長い靴下、帽子を被って大きなランドセルを背負って一年生として晴れがましい気持ちで母に連れられて学校に行った記憶があります。一年の時の担任は女性の先生でしたが、手が掛かる生徒で先生には苦労をかけたと思います。

28・紙屋堂
学校の向かいに「かみやど」という文房具店があり、学校指定の文具等はここで買わなければならないのですが、おばさんが怖く、しまりやで少々ケチな感じがして余り行きたく無かった記憶があります。今はどうか分かりませんが、当時文房具店は子供たちの社交場であり、おもちゃや駄菓子など置いてある商品は魅力的なものばかりでした。その中で舐めると字が出て来るというような籤のようなものがあり、当たるとおもちゃ等がもらえるものでしたが、「かみやど」のは外れである「スカ」ばかりでした。なお数年前、日本から送っていただいたビデオでたまたまこの文具店を店仕舞する話があり、このお店の名前が「紙屋堂」である事を始めて知りました。(それまでは「紙宿:かみやど」だと思っていました。)あの怖かったおばさんが登場しましたが、既にかなりのお年となり、商売を続けられないという話で長年地域に親しまれたこのお店を惜しむ番組でした、とにかくこの小学校の生徒に取り重要な存在であった事は間違いありません。

29・ヤマハ音楽教室
小学校に入学すると毎週木曜日に「ヤマハ音楽教室」に連れて行かれるようになりました。場所は新宿区・中井でどこかの幼稚園であったように記憶しています。女の子が多く、音楽教室等カッコ悪くて嫌で嫌で「行きたくない」と何度も駄々をこねた記憶があります。しばらく通った後に母も諦めて強制はしなくなり、結局は短い期間だけの通学となりましたが、このお陰で音楽の成績は何時も良く、また大人になってコーラスを始めた際にも大いに役に立ち、感謝しております。今でもこの時に毎回歌った「ヤマハ音楽教室の歌」ははっきりと覚えており、時々口ずさむ事もあり、小さい時の教育は大切であると痛感する次第です。なお、音楽教室ではオルガンを使い、最初に習ったのは「おつかいアリさん」という曲で「ドドレレドドシシドレドシドドド」という旋律でした。子供が嫌がっても小さい特に何か教えると身に付くものなのですね。

30・私たちの中野
少年時代は小学校4年生までは東京都中野区東中野に住んでいました。小学校の社会科の授業で地域の地理に関して学習する時間があり、「私たちの中野」なる教科書を用いて勉強したのをよく覚えています。内容は中野の地理と歴史でした。現在区役所、警察学校、サンプラザなどがある中野駅前は以前は「囲町」と呼ばれていて、綱吉がお犬様を飼育する為に囲いを作ったのでこの名がある・・というような授業であったように記憶しています。実はそれまで中野区に住んでいる事を余り意識していなかったのです、と言いますのは東中野は新宿から歩いて行ける程の近さで、地下鉄・丸の内線では一駅(当時は最寄の中野坂上の次が新宿であった。西新宿駅は比較的新しい駅)買い物などは全て新宿に出かけていました。一方、都心とは反対方向にある中野駅付近に行く必要も用事も無く、実際にはほとんど行ったことはありませんでした、ましてや新井薬師、野方、都立家政などの駅名は知っていましたが、同じ中野区と言いましても西武新宿線沿線や南部の渋谷区笹塚に近い地区など足を踏み入れた事も無く、全く別の地域という感じでした。遠足と学習を兼ねてバスに乗り中野区を一周した時にはほとんど知らない地域を巡り、驚きの連続でした。さて、最近訪日した際に友人が中野区に住んでいるというので出掛けました。最寄の駅はと尋ねますと「中村橋」と言うのです。練馬区役所が在る練馬駅の次、西武池袋線の駅なのですが、確かに駅を降りて少し歩くと中野区になりました。ここが中野区!と不思議な気持ちになりましたね。帰りには次の富士見台駅まで歩きましたが、こちらは何と駅前まで中野区でした。(どう見ても練馬的なここの子供たちも今でも「私たちの中野」を学習しているのでしょうか?)また、今でも都立家政駅というのがありますが、これは多分現在の鷺宮高校の前身が都立家政高校であった為にこの名称になっているのでしょうが、これも変更せず現在までそのままというのは不思議な気がします。東京の区割りは歴史的な理由があるとは思いますが、機能的に沿線・駅、経済圏で再区分した方が良いのではないでしょうか?目黒駅が品川区に在り、品川駅は港区に在る、新宿駅前に在る新宿高校、新宿高島屋の所在地は渋谷区千駄ヶ谷・・考えて欲しいものです。(こんな文章を南米のパラグアイで書いているというのも変ですね)

31・神田川
中野区と新宿との区界には神田川が流れていました。当時の行動半径は学区域内、半径500メートル程で、この神田川から先は別の区という事もあり、他所の世界と考えてほとんど行きませんでした。小さな川でしたが、子供には大きな存在でもあったわけです。神田川は元々は江戸時代の上水として作られたものですが、この当時には小さな余り綺麗で無いコンクリートに固められた川で、この後に南こうせつさんが作曲されたあの美しい旋律とは全然違うイメージでした。それでも今思い出すと懐かしい何かノスタルジーを感じさせる川なのかも知れませんね。友達にこの神田川沿いに住んでいる子供があり、そこに遊びに行くのが楽しみでした。川のギリギリに建っている家で窓を開けると川が広がり、まるで川の中に住んでいるように錯覚しました。

32・空き地で野球
当時は現在よりも野球が盛んであったように記憶しています。帰宅後の男の子の遊びの定番は空き地で野球であったと思います。「ドラえもん」を見ていますと、子供たちは土管が置いてある空き地で野球をしていますが、まさしくあのような感じ、中野区でさえ、まだあちらこちらに空き地があったように記憶しています。また、自分たちの住んでいる社宅の一部に空き地があり、そこで缶蹴りをして遊んだのをよく覚えています。今でも子供達は缶蹴りをするのでしょうか?また防空壕の跡が残っていた場所があり、防空壕跡には水が溜まり、多くのザリガニが住んでいました。夏になるとこのザリガニを取ったり、蝉を取ったりと今の東京からは全く想像出来ないよう豊かな自然があったように思います。下町は分かりませんが、東京でも山の手に住んでいた当時の子供達は自然に親しむ機会が多かったように思います。
33・士農工商
学校で昼休みもしくは放課後で一番やっていた遊びは「士農工商」というものでした。後に歴史の時間で「士農工商」というのは江戸時代の身分制度である事を勉強しましたが、この時にはこの遊びの名前だと思っていました。さて、この遊びプレヤーは4人、地面に大きな正方形を描き、それを四等分し、中央にもう一つ45度違えて小さな四角を描きます。この小さな四角は「がんぼこ」と呼ばれていました。ボールはドッジボールのような少し大きめのボールを使用します。自分の陣地に来たボールをワンバンドした時にそれを他の3人のいずれかの陣地に打ちいれます。打ち損じたり、外に出ますと負けで1つ降格となります。士の人が負けになると農と入れ替わりという訳です。ただし、真ん中にある「がんぼこ」に打ち込むと一気に一番下の商にまで落ちます。またもし4人以上居る場合には商で負けになると待っている人と交代となります。少しづつ出世して士になっても「がんぼこ」に打ち込むとその瞬間最下位に落ちるという訳です。校庭で狭い場所が確保出来れば遊べますし、勝負が早く、10分の休み時間でも結構楽しめますのでこればかりやっていました。インターネットで検索しても全くヒットしないのでかなり限られた地域の名称、遊びであったのかもしれません。

34・新宿
当時の新宿は現在と比較しますとそれほどは賑やかでは無く、特に西口は再開発の準備でほどんど何も無い様な状況でした。デパートは現在の小田急ハルクとなっている場所が小田急デパートであったと記憶しています。東口側も現在のような姿では無く、雑然としていて伊勢丹デパートだけが目立っていました、ただヨドバシ・カメラのようなものは無く、けばけばしさもありませんでした。街の雰囲気は現在の吉祥寺とか立川のような感じでした。母によく連れて行ってもらったのは中村屋、現在でも名物となっているカレーの他、珍しい麺類があり、この中村屋で食事をするのが楽しみであったのを覚えております。また、ハンバーガーがまだほとんど一般的でなかったこの時代にメニューにあったと記憶しています。一度食べてみたいとねだったのですが、これは家で簡単に出来ると断れた記憶があります。(しかしながら家でハンバーガーが出たことはありませんでした。)そして地価の高い事で有名になった隣の「高野」はごく普通の果物店であったような記憶があります。

35・少年時代に南米に憧れる
この頃、外国の事が好きで地球儀や地図を毎日眺めていました。最初に気に入った絵本は「世界の国々」という本でその中で特にお気に入りのページは「アルゼンチンのパンパ」でした。大きなトラクターが小麦を刈り取る景色でした。どこまでも続く平原に見渡す限り小麦畑がある・・それ以来、アルゼンチンは憧れの国となりました。そして次のお気に入りの絵本というよりは写真集であったのかも知れませんが、それは「世界の都市」というものでした。その中でお気に入りのページは「ブエノスアイレス」7月9日大通りとオベディスクを上から撮影したものでした。写真を眺めて、すっかり美しいこの大都会に魅せられてしまいました。「大きくなったらアルゼンチンに行こう」「ブエノスアイレスに住もう」と夢を膨らませたものです。中学時代になりますと未来の大国「ブラジル」に惹かれ、ブラジルに行きたいと思うようになりました。今でもブラジルは「未来の大国」、本当の大国になるのは何時の事でしょう?また、家に置いてあった平凡社の百科事典で各国の情報を眺めていました。勿論パラグアイに関しても興味を持って見ておりました。国の形が頭でっかちで面白いという印象で、町の名前がアスンシオン、エンカルナシオン、コンセプシオンとあり、シオンというのが「町」という意味ではないかと想像していました。アスンシオン市の説明では人口五十万人とあり、写真には路面電車がありました。

36・プロ野球を見に行く
当時「東京ドーム」は無く、まだ後楽園球場でしたが、父に連れられて野球を見に行ったのをよく覚えています。父がどこからかプロ野球観戦のチケットを入手して来ると、部屋の入口に貼り付けてそれを見に行くのが楽しみで指折り数えていたものでした。最初は手に入れ難い巨人戦をわざわざ持って来ていました。熱狂的な大洋ファンなので「巨人-大洋」を一番見に行きましたが、持って来るのは、必ず一塁側の最前列のチケットでここで大洋を応援していますと回りから嫌がらせを受け、それが嫌であったのを覚えています。「3塁側で巨人を応援している人が居るのだから、一塁側で大洋を応援しても良いではないか」と屁理屈を言っていました。また当時は東映の本拠地でもあり、パリーグの試合でも同じくらい喜ぶ事が判るとそれからは入手し易いパリーグのチケットを主に持って来るようになりました。「東映-阪急」などというゲームを見に行っていました。父親は試合の大差がつき、大勢が判明すると7,8回くらいになると「さあ、帰ろう」と言って席を立ってしまうのが何よりも残念でした。試合終了まで見て初めて野球という思いは強く、成人し自分で行くようになってからはどんなに大差が付いても試合終了まで観戦しています。会社に就職して自分で野球を見に行けるようになってからは渋谷から東横線に乗り、横浜スタジアムにベイスターズを応援に行くようになりました。サッカーが盛んな当地ですが、やはり野球を見ると面白いですね。幸いにも大リーグの試合の中継もあり、野球を見る事が出来、楽しんでいます。ただサッカーを見慣れると試合時間が少々長過ぎると感じるようになっています、もう少し試合時間を短縮して欲しいものですね。

37・おかず
当時の我が家のおかずは若い夫婦と育ち盛りの子供達の一家ですから勢いボリュームがあるものでした。特に多かったのは中華風のおかずで、餃子、肉団子などは毎週のように食べていました。餃子は家族皆で皮に包み込んでいましたが、上手に出来ず、焼くと中身が出てしまうので、その内に女性達だけの仕事になりました。また、洋風としては白ソースのマカロニグラタン、ロールキャベツ、トンカツ、牡蠣フライ等が定番でした。この中で苦手は牡蠣フライで当時は全く食べる事が出来ませんでした、独特の臭みが苦手だった記憶があります。(今では反対に一番食べたいもので、訪日した時には真っ先にいただきます)和風というのは母親も余り得意では無かったようで、煮魚などを出すことはありましたがそれほど頻繁ではなかった、また、おでんは余り美味しくは無かったように記憶しています。小さい時にこのような食生活でしたので、現在でも一人で食事をする際には和食を食べに行く事はほとんどありませんが、ただ日本食の中で例外的によく食べたのは天ぷら、何故か皆「ハスの天ぷら」が大好物で、これを食べていました。多目に作っておき、翌日には醤油と砂糖で甘辛く味付け、天丼にすると美味しかったですね。

38・犬を飼う
当時家庭で飼われている多くの犬は雑種で、洋犬で多かったのはスピッツであったように記憶しています。白くて小さくて、よく吠える犬でよく見かけましたが最近はめっきり見なくなりました。犬にも「はやりすたり」というのがあるのでしょう。当時急速に人気が出て来た犬はシェパードとコリーで両方ともテレビの影響でした。1880年代カリフォルニアのアパッチ砦を中心に、騎兵隊のマスコットの孤児とその愛犬がくりひろげる冒険西部劇名犬リンチンチン(日本テレビ:60年まで)が人気を集めていまいした、その犬かシェパードで、そしてもう一つ「名犬ラッシー」というこちらは米国のホームドラマがあり、そこで活躍していたのがコリーでした。その頃、父が知り合いからコリーの子犬を貰って来ました。若草物語から名前を取り「ロリー」という名前を付け、我が家の一員となりました。確かにコリーは気品ある犬で、非常に利口でよい遊び相手でした。当時まだ小さい子供でしたが、この犬を連れてよく散歩に連れて行きました。犬の方が大きく周囲で笑って見ている人も多かったのですが、小さい買主が行きたい通り付いて来てくれる賢い犬でした。九州に転勤が決まった時に大型犬は置いて行こうという事になり、親戚に預けて行きましたが、連れて行ってあげられたら良かったのに可哀想な事をしたと今でも思っています。

39・相撲観戦
相撲を観戦に行ったことをよく覚えています。当時まだ国技館は蔵前にあり、夏場所を観戦しに行きました。席は升席でしたが、その中では一番後ろの方でした。野球とは違い弁当、焼き鳥、お酒等の飲み物、あんみつ、そして茶碗などのお土産が付いて来るのにまず驚きました。升席は想像以上に狭く4人で入ると、はみ出すほどでした。母など女性軍は土俵にお尻を向けて、相撲はそっちのけで食べてお茶を飲んで、おしゃべりに夢中になっていたのを覚えています。また、実際に見ますと土俵が近いのには驚きました。野球に慣れているせいなのか国技館が非常に小さい、取り組みを書いている掲示も思っていたよりも小さかった記憶があります。そして相撲取り、まわしがテレビで見るよりもピカピカと光っている感じでまた相撲取りの肌の色もずっと綺麗でした。テレビでは土俵の相撲取りしか見れないのですが、花道で力士を見ていると意外に冗談等を言い、ひょうきんで楽しそうにしているのは見ていても面白かったですね。

40・遠足
幼稚園から小学校にかけて楽しみであったのは何と言いましても遠足ですね。色々な場所に行ったのですが、何回かは覚えています。まず西武園、遊園地に行くのは楽しいもので記憶に残りますね。そして千葉・稲毛海岸の潮干狩り、海という場所で印象が強かったのでしょう、現在は陸地になっている場所ですが、当時は海であさり貝が沢山取れた記憶があります。そして、浜離宮、綺麗な庭園でした、大人になるまでここが都心にあるとは知りませんでした。多摩湖・狭山湖、これは前述の西武園の時に訪問したのかも知れません、東京の水瓶として社会見学の意味もあったのでしょう。社会勉強として芋掘りというのもありました、そして一番印象に残っているのは梨もぎです、行った場所は何と武蔵小杉、今では建物がびっしりとなり、梨が名産であったとは信じられませんね。とにかくお弁当を持っての遠足良いですね。

41・プール
通っていた小学校にはプールがあり、6月頃からは水泳の授業がありました。すぐ近くの中学にはプールが無く、この学校と共用という事もあって、決められた時間割に従い、小雨が降ったりして少々寒い時でも強行され、ガタガタ震えながら泳いだ記憶があります。しかしながら、可哀想であったのが近くの中学の生徒達、わざわざ歩いてやって来て、何と男子生徒は赤褌着用が義務付けられていました。真っ赤な赤い褌、どう見ても余りカッコ良いものではありません、褌など身に付けた子供等居るはずも無く、大事なものがはみ出しそうな生徒も居ました。そして授業が終わり赤褌を取りますと体に赤い染料が付き、ますますカッコ悪く、小学生からも笑われる始末です。通っていた小学校は半分がこの中学、そして半分が他の中学の学区域になっていましたが、我が家の住んでいた社宅はもう一つの中学の学区に属していて、そこでは自前のプールがあり、普通の海水パンツで泳ぐ事を確認し、ほっとした記憶があります。現在でも赤褌を使用している学校というのはあるのでしょうか。

42・柳君
クラスメイトに柳(やなぎ)君という友人が居ました。最初知り合った頃は少々乱暴な感じの少年なので、余り仲が良くなく、当方も敬遠していました。よく話をし打ち解けてみますと意外と良い奴で、それ以降は友達として付き合うようになりました。ところがある時、急に転校するというのです、「えっ!、どこに行くの?」と聞きますと、小さな声で「国に帰るの」というのです、これには驚きました。「えっ、君は日本人ではないの?」と尋ねますと「朝鮮に帰る」というのです、この時初めて柳君が日本人ではなく、朝鮮人であり、家族と一緒に朝鮮に戻る事を知りました。しかしながら、よく話を聞きますと彼は日本生まれであり、実際には朝鮮に行った事は無く、今回が初めての渡航とのことでした。程なくクラスの仲間にお別れを告げて柳君は去って行きました。柳君は多分「リュウ君」で、在日の少年であったのでしょう、その後かの朝鮮に渡り、どのように暮らしているのか気になるこの頃です。

43・地球儀・地図帳
この頃家で何をしていたかと言いますと、地球儀と地図帳を眺めていた記憶があります。ごく小さい時には地球儀を毎日眺めていて、その内にこれでは満足しなくなり、分県地図、高校生用の地図帳を買ってもらった記憶があります。毎日飽きもせず地図を見て過ごしていました。その後、地理が得意科目となり、大学受験の際には全く勉強しなくても確実に高得点が取れるようになりましたが、これはこの頃の基礎があったからでしょう。そしてもう一つ大きな収穫は漢字で、地図帳で漢字を覚えたように思います。市名にある漢字は間違い無く書けるようになりました。現在でも訪日しますと最新の地図帳は必ず買って来、今でも暇があると地図を眺めております。

44・貸本屋
当時は街のあちらこちらに貸し本屋という商売がありました。自宅の近く、神社の近くにも1軒あり、よく利用していました。今で言う貸しCD/DVD店のような存在であったように思います。ただ借りるのは主に子供でした。本と言いましても学習に参考になるような本は当然のことながら学校の図書館にでも行けばありますので、ここで対象となるのは漫画本という訳です。手塚治虫さんのゼロマンなどを夢中になって読んだ記憶があります。リスから進化したゼロマンと猿から進化した人間が地球の覇権を争うというような内容であったように思います。現在よりも分かり易くほのぼのとした漫画が多かったのと、先の戦争を題材にした戦争漫画なるジャンルが存在し、貝塚ひろしさんの「ゼロ戦レッド」などが今でも印象に残っています。これは赤いゼロ戦に乗った主人公が劣勢の日本軍を救うというような話であったように記憶しています。戦争漫画など今では考えられませんね。また野球漫画も人気がありました。関谷ひさしさんの「ストップにいちゃん」というのが気に入っていました。多くの野球漫画がプロ野球を扱っている中、日常どこにでもあるような学校が舞台であり、主人公がキャッチャーというのも気に入っていました。

45・レンズ・蟻の巣
小学校で何を勉強したのかはほとんど覚えていませんが、一こまだけは今でも鮮明に記憶に残っています。レンズを使って太陽の光を集め紙を焦がすという勉強で、実際に虫眼鏡を持って校庭に出て太陽の光を集めて焦がした事です。この膨らんだガラスで物を燃やせる事に驚いたのでしょう。こわごわと焦げている場所に指を置くとそれほどは熱くない、これで何で燃えるのだろうと不思議に思った事を今でも覚えています。そしてよくやっていたのは蟻の巣、庭で蟻を集めガラスの瓶に土と一緒に入れて巣を作らせるというもので、きゅうりのようなものを上に置き暗い場所にしばらく置くとガラスの淵にも巣の作り中が見えるというものです。蟻がこまめに動いているのを外から見て楽しんでいました。

46・熱海
父の勤務していた会社の施設が熱海にあり、家族旅行で何回か出掛けました。現在もある緑とオレンジの湘南電車に乗り込み、お茶とお弁当を買って列車の中で食べ「非常に遠くに行く」と思っていました。熱海は東京駅から僅か100キロで、少々無理をすれば通勤出来るくらいの距離ですが、「静岡県」と聞くだけで当時は結構遠かったように思います。NHKが「1」では無い事に驚いた記憶があります。温泉街というのは普通の街とはまた違った趣があり、散策して廻ったのを覚えています。 

47・大島
一度家族旅行で大島に行った事があります。東京から直接出掛けたのでは無く、熱海に泊まり伊豆の下田か伊東から船に乗りその間を日帰りで行った記憶があります。多分、船に乗るまでは非常に喜んでいたのでしょうが、実際に船に乗りますと小さい船で波が大きくかなり揺れて船酔いがひどく、気持ちが悪くてフラフラになったのを覚えています、大島に到着しても観光どころでは無く、帰りの船に乗りたくない・・という気持ちで一杯でした。それでも三原山の力強い姿には圧倒されました、(でもここが東京都である事には合点が行きませんでした。)それ以降、今でも船には恐怖心を持っています。学生時代に北海道に行った際にも友人達が礼文島に行こうと誘うのを一人反対した記憶があります。当地の移住者の皆さんは船に乗って地球を半周したと聞くだけで尊敬してしまいます。

48・軽井沢
家族旅行で数回出掛けたのは軽井沢です。当時の軽井沢は現在から見ると別世界で、どことなく神々しさがありました。当時はハイ・ソサイアティーの行く所というような感じで歩く人も気取っていたように思います、皇太子殿下と美智子様(現在の天皇・皇后両陛下)のテニス・・という印象でした。そして東京とは違い爽やかな気候が気に入っていました。軽井沢には多くの別荘はありましたが、駅前に喧騒は無く、静かな田舎でした。今の状況を見ますと当時を想像する事は不可能です。さて、上野駅から列車に乗り、群馬県側の横川駅で電車で取り替えます。この為に停車時間が非常に長く峠の釜飯とお茶を買うのがここでの行動パターンになっていました。この間はアプト式と呼ばれる特別な方式で急勾配を一気に上ります。長野新幹線の開通で軽井沢も近くなり、独特のあの雰囲気は失われて東京化し、また現在では中軽井沢など近隣地域の伝統ある名前が無味乾燥な地名に変わってしまっている(田園調布と同じですね)のは非常に残念な限りです。そして拡大する軽井沢、何時の間にか群馬県側にまで達していて、北軽井沢と呼ばれるようになっているようです。また最初に行った時には草津温泉との間に草軽鉄道というのが走っていたそうで、これに乗れなかったのは残念な限りです。現在でも草軽交通はバス会社としてこの地域の重要な足になっているようです。

49・父が九州に転勤

父親の転勤で小学校4年から中学2年まで4年間、三池炭鉱で有名であった九州・福岡県大牟田市に住んでいました。三井グループのある会社に勤務していた父は事業所が在る北海道か九州へ転勤する事になり、寒さが厳しい北海道よりは新婚時代を過ごして土地勘も在る九州を選択したようです。引越しは夏休みに行う事になり、ほとんど役に立ず邪魔でしかない当方を抱え母が慌しく引越しの準備をしていたのを記憶しています。母としては東京を離れたくは無かったでしょうが、転勤はサラリーマンの宿命、さばさばとした表情で片付けに精を出していました。

50・江ノ島
祖父と従兄弟達と一緒に江ノ島に行ったのをよく覚えています。父の九州への転勤が決まり、もうしばらく会えないと思ったので親戚の男同士で一緒に小旅行をしようという事になったのです、最初は浜松まで泊り掛けで鰻を食べに行こうという話で楽しみにしていたのですが、母は時間が無いというような理由を付けて反対し、結局日帰りの江ノ島に変更になりました。当時の九州は現在の南米よりも遠い感じがあり、暫くは会う事が出来ないというような感じでした、当時の南米はどのくらいの遠さであったのでしょうね。さて、江ノ島ですが、現在でも名物として残っているさざえがリーゾナブルな値段でいただく事が出来ました。つぼ焼きにしょうゆを注していただく、至福の一瞬です。帰りは江ノ島から藤沢まで江ノ電で行くか、それとも小田急で行くか祖父と当方で争いになりました、「江ノ電に乗りたい」と強く主張したのをよく覚えています。江ノ電、当時は確か江ノ島鎌倉観光鉄道という名称であったと思いますが、電車が大好きな少年にとっては江ノ島よりもこの電車に乗るのが目的であったようで、頑固なじいさんに譲る気にはならなかったのでしょう。(母はこのような事態を予想して時間の長い泊り掛けの旅行に反対したのでしょう。そして江ノ電には今でも乗りたいと思っています。)江ノ島のある湘南の景色は懐かしく、最近までカラオケと言いますと「チャコの海岸物語」ばかり歌っていました。そしてこの時に行けなかった浜松、その後も何回もこの街を通過しますが未だに行った事がありません、一度チャンスを逃すと行けなくなるものなのかも知れませんね。何時か訪日した時に名物の浜名湖の鰻を食べに行きたいものですね。

51・転校
転勤となりますと慣れ親しんだ小学校ともお別れしなければなりませんでした。幼稚園時代からずっと親しんでいた友人達と別れるのは辛く寂しかったのですが、どちからと言いますと行った事が無い未知の土地への期待の方がより強かったように記憶しています。ただ、「九州の大牟田に引っ越す」という説明を先生は余りよく理解出来ていないようで「九州の大村に引っ越す」という説明になり、皆地図で一生懸命地名を探し、「長崎県に行くんだ」と思われていました。最後に教壇の横に先生と立ち皆にお別れを言い、窓から級友達に手を振られながら教室を後にしました。生まれてから約10年間、少年期の東京生活が終わりました。

52・ブルートレイン
子供心に転勤が決まって遠くに行けるのが嬉しかったのと待望のブルートレインに乗れるのが嬉しかったのを覚えています。当時、九州に行くのは夕方に東京を出て、翌日の午前中に目的地に着けるブルートレインに乗るのが一般的でした。16:00の長崎・佐世保行きのさくら(列車番号1番)から始まり東京駅を九州各地を目指し次々に出発していました。乗り込んだのは熊本行きの「みずほ」で、憧れの寝台特急に乗り、初めての寝台車でなかなか寝付けなったのをよく覚えています。そして目を覚ますと朝日とそれまで見た事が無いような綺麗な海が見え感動したのを覚えています、列車の放送があり、「おはようございます、現在列車は柳井駅を通過したところです」と案内があったのを記憶しています。列車により岩徳線経由の場合もあったようですが、この列車は山陽線経由だったようです。そして食堂車で朝食をいただきましたが、列車の中で食事を摂るのはこれが初めて、朝日に輝く綺麗な瀬戸内海を見ながらあこがれのブルートレインでの朝食、夢のようひと時を過ごしました。下関を過ぎて関門トンネルに入る時には今か、今かとドキドキしながら車窓から外を見つめ、九州に入った時には、ああこれからここで過ごすのだ、子供ならが感慨に浸っていました。黒崎、博多、久留米と時刻表ではお馴染みの駅に停車して昼前に大牟田駅に到着、降りたのは自分たちを含めて10人くらいであったように記憶しています、ほんの1分間くらいの停車時間で私達を運んで来た「みずほ」は慌しく終着駅の熊本に向かって走り去って行きました。大牟田市に到着した第一印象はとにかく日光が強いことで、南国に来た事を実感しました。今でもこの寝台特急は「はやぶさ」と名前を変えて東京と熊本の間を走っています(ある大手銀行がこの特急の名前を使ったのでJRは使用するのを止めてしまったようです)。何時かまた乗ってみたいものですね。

53・大牟田に到着
夕方出た列車は次の日の昼前に大牟田駅に到着し、駅に降り立ちました。それまで一番遠くに行ったのは伊豆か軽井沢であったので、今から考えますとおかしいのですが、遥か地の果てに来たように感じ、緊張していたのを記憶しています。駅には父の会社の方が迎えに来ていただいて、これから我が家となる社宅まで送っていただきました。最初の印象はとにかく太陽がまぶしいという事でした。夏休みになって間もない頃であり、太陽が真上から照り付けているように感じました。「南国に来た」、熱帯に来ているように感じていたようです。そして夕方になり、日没の時間が東京と全く違うのに驚きました。東京と大牟田では時差があり、40分ほど日の出と日没の時間が違うのですが、そのような知識は全く無かったので、驚き、初めて「地球は丸い」事を実感しました。東京で過ごしていたのとは全く違う生活が始まりました。

(写真:大牟田駅:2017年撮影)

54・大牟田市立の小学校に転校
当時は大牟田市とその周辺は「新産業都市」にも指定されており、九州では有数の工業都市でありました。転校した小学校の校歌に「南に雲仙 西に多良、有明の波ゆたゆたと、その名も高い、三池港、クレンの音ぞたえまなし」」歌われる有明海に面していて、海が美しい街でもありました。学校は自宅から割合に近い場所にあり、途中に醤油工場があり、そのかおりと川は海に近く潮のかおりが漂っており、緑が強い東京とは違う景色を楽しみながら通学をしました。なお時代は変わり、現在では綺麗な校舎、プール、体育館・講堂があり、小学校6年生では英語の授業もあるという先進的な学校になっているようです。

55・大牟田市
大牟田市は福岡県ですが、一番近い県庁所在地は佐賀市で34キロ、次が熊本市で49キロ、福岡市までは72キロという事で福岡市は遠く、言葉、食事など文化的には実際には熊本文化圏であったように思います。大牟田と言う地名よりも当時は炭鉱の名前の全国的には「三池」の方が通りが良かったように思います。実際に炭鉱以外にも三池港、三池高校、三池工業高校のように市内のあらゆる場所でこの名前を見ました、何故「三池市」にしなかったのでしょうね。さて、この三池工業高校ですが、夏の甲子園初出場で初優勝の快挙を成し遂げ、一躍有名になり、監督は神奈川にある東海大付属高校に引抜かれたのです。その監督に野球センス抜群の息子がおり、それが2003年に巨人軍監督をしていたあの原監督という訳です、従いまして原さんは大牟田出身という事です。当時の大牟田市は多少斜陽にはなっていましたが、三池炭鉱がまだあり、三井グループの企業城下町として多くの企業があり、工業都市として活気がありました。熊本県側にも市街地が延びており、こちら側は荒尾市として行政的には別の街になっていましたが、両方を併せて25万人くらい人口があり、当時としては全国的に見てもかなり大きな都市でした。県境は結構繁華街になっていて、この地区は「けんざかい」と一種の地名のように呼ばれ賑わっていました。この近くに有力な坑口(四つ山、三川)があったので活気があったように記憶しています。また市内には天領等の地名があり、ここは江戸時代には直轄領であったようです。

(地図:住んでいた付近)

56・炭鉱の街
当時既に炭鉱は斜陽産業となっており、戦後盛隆を誇っていた筑豊・北海道の有力炭鉱はほとんど閉山されてしまい、残っている炭田の中ではこの大牟田・荒尾にある三池炭鉱が最大でした。筑豊などですとボタと呼ばれる採掘されて石炭を取った残りを積み上げ、ボタ山があるという事は聞いていましたが、三池の場合にはボタは埋め立てに使用され、目に付く所には無くボタ山を見た事はありません。とにかく街中に煙突があるという感じで、煙突からの煙が繁栄の象徴のように考えられていたように思います。炭鉱は3交代24時間採炭していたように記憶しています。朝八時からが一番方、午後四時からが二番方、夜中の十二時からが三番方だったと思います。そして夏の盆踊りは「月が出た出た月が出た、三池炭鉱の上に出た・・」と炭鉱節の本場の為か盛んであったのを覚えています。また当時は「総資本対総労働」と言われ全国の労働争議の焦点となった戦後労働史のエポックである「三池争議」の余韻がまだ残っている為か労働運動が盛んでした。ただ労働組合が二つに分かれていたようで、朝になりますと大きなスピーカーから元気の良い労働歌が流れていました。「皆仲間さ、炭掘る仲間・・」というような勇ましい歌でした。しかしながら外から想像するような暗い雰囲気は全く無く、皆助け合って暮らしており、明るく楽しそうだった記憶があります。当時閉山された炭鉱やこの三井三池もテレビのドキュメントに出て来ましたが、悲惨な暗い雰囲気のものがほとんどで「このような事ばかりでは無い、脚色されている」と憤慨していました。今は脚色された南米の番組に憤慨していますが同じ心境ですね。

57・炭鉱に関しての注釈(鹿児島県に住む一年後輩の解説
思い出 46段の炭鉱の街について誠にせんえつながら一言しゃべらせてください。田中さんのお父様の方が私よりもはるかに詳しいに違いありませんが、嘗て大牟田市に住んでいたこともありどうしてもしゃべりたく、柳に風と聞き流してください。田中さんが大牟田に居られた頃の三池炭鉱は次のようだったと存じます。日本国内の出炭量が2400万トンあったと思いますが、35%を三池炭鉱で出炭していたと推察します。 坑口が3つあり 古い順に 宮浦坑 三川坑 四山坑です。その当時8,000人の人達が働き、1日に2万トンの石炭を出炭していたと存じます。歴史が違う分だけ気風も違い、言わば性格の違うダンゴ3人兄弟のようなものです。長男は宮浦坑で大正時代に開坑され、上官町の北側の三井コークスの近くにありました。今は当時の場所から少し離れた小高い丘の上に小さな記念公園があり、その頃使われていた人が乗った人車(どこかの遊園地にでもあるような小さな観覧車)や石炭や坑内で使う木材(松の木やどんぐりの木で支柱や枕木にしようされた)を運んだ小型の貨車(炭函と書きハコと呼ばれた),機械を積んだ台車状の貨車がおかれて、粗末な地下鉄のホームのような所が設けられています。(宮浦公園と称しています。)宮浦坑の坑口からは斜坑で、地下180mまで下って行きました。当時働いていた人の話では、坑道内は人が通る部分とレールが敷かれて列車(巻き上げ機械で操作されていた)が通る部分に区分されていたと言います。その昔は馬がいて、地上と地下との坑内で使う材料や石炭を積んだ列車即ちハコを郵便馬車のようなイメージで運んでいたと言います。坑底は松屋デパートから少し離れた五月橋近くの三井銀行あたりになります。水平に大牟田川の河口沿いに地下で水平に8~10kmほど進み、地図で見ると有明海に浮かぶ人工島の初島周辺の海底下の石炭を採掘していました。古い設備を使いながらも、比較的良い自然条件の下で出炭をしていました。気風は長男らしく昔気質の人が多いが、それでいて家族意識みたいな共同意識が強くてお互いの結束も強かったと聞いています。

次男は昭和初期に開坑した三川坑で、諏訪川をはさんで丸長醤油の向い側にありました。同じ敷地内には明治時代に三井グループの迎賓館としてたてられた 港クラブ があります。嘗ては三池港に入って来た外国航路の上級船員の宿泊施設として使われたとのことです。この建物は、日本近代建築物百選にも選ばれ洋風の独特の雰囲気を漂わせています。三川坑からは斜坑で地中350mまで下り、そこからさらに水平に有明海の海底下を進み、有明海中に浮かぶもう1つの人工島の新三池島との間の石炭を採掘していました。天皇陛下が昭和24年全国行幸の際に実際に坑内に入坑されたと言われています。昭和史の記録映画では、白い衣服をまとわれて”石炭産業は日本の基幹産業ですからがんばってください!”現場の人達に囲まれている中で大変うれしそうにお言葉を述べられているシーンがあり、”天皇陛下万歳!!”の所では御自ら満足げに万歳の手を挙げられています。世界的にも屈指の機械化が進んだ事業所で、三池炭鉱の主力坑でありました。現にその当時西ドイツからホーベルとかいう採炭機械が導入され(大工さんが使う かんなのおばけみたいな機械で石炭の壁を削る採炭機械です。)また、ドラムカッターとかいう言わば岩石破砕機と言うべきゴツゴツした鋼鉄製のピックをちりばめた直径1mほどの円筒形のドラムを200kWの大型電動機を回転させて石炭の壁をガリガリと削り取るものでした。この頃、ドイツ人の技師が機械の使い方を教えに三池炭鉱に来ていたようです。気風は、きかん坊の次男のように合理性を重視するもので やる時はややる、やらない時はテコでも動かない頑固さがあったと言います。

三男は四山坑で あの三井合名理事の 団 琢磨 が造ったと言う 三池港 の最先端にあり、そこからは竪坑の巨大なエレベータで地下520mまで下り、そこからは水平に5~6km進み新三池島周辺の海底下520m~670mの深い個所で石炭を採掘していました。竪坑は同じ三井鉱山の筑豊田川鉱業所にあった伊加利竪坑の設備を移設したそうです。その当時は東洋一の竪坑と称されて、ドイツのジーメンス社製の3,450kwの巨大な直流電動機で3段階層のエレベータを動かして、地下520mまではほんの1分足らずで人間や材料を積んだ坑車(トロッコのようなかたちの貨物車)を運んでいました。地中深い所であったため地熱が高く暑くて、所々に温泉が湧いていたといい働く人は塩をなめながらの仕事だったと言います。(暑いために熱中症の防止策だそうです。)さまざまな冷房機械が導入され、冷凍機の技術が進んだとも言います。採炭機械も三川坑と同様に高度なものが導入され、1人あたりの出炭量が多い効率の良い事業場(現場用語でヤマ)であったといいます。気風は、ちゃっかり屋の三男坊のように効率性を重視し昔の日本海軍のような良いものは良いとする固定観念にとらわれない自由かっ達なところがあったようです。なお、田中さんが大牟田に住んでいたころよりも10年程後に 長男宮浦坑の息子 とも言うべき有明坑 が加わります。ここは日鉄鉱業という会社(新日鉄系列の鉱業部門の会社と聞いています)が鉱区を持ち開発していたのでありますが、度重なる海底下の出水で手がつけられなくなり、放置していたものを三井鉱山が買い取って開発し、昭和52年に宮浦坑と坑道が開通したため、すでに坑口から12kmも採掘現場から離れていたことから宮浦坑をここに移しました。宮浦坑の人達のうち半分が三川坑に坑口移転し、残り半分が有明坑に移って来ました。と言うよりは、宮浦坑の復活をするために有明坑に移ったというのが正しいかと思います。有明坑は竪坑で、1つは入気用で安定感のあるよつんば状の日立製の竪坑櫓がありました。日立製の550kWの交流電動機で動かすエレベーターがありました。もう1つは排気用で竪坑櫓は数字の7を裏返したスマートな形をした三井三池製作所製の竪坑櫓があり、東芝製の700kWの直流電動機で動かすエレベーターがありました。地底までエレベーターで320mまで下り、坑底で水平に3km進んだ所が採掘個所でした。坑底には、500kwの排水ポンプが6台 1500kWのポンプが5台 220kWのポンプが1台あり、毎分60トンの水を一気に320mの高さ(東京タワーと同等)で揚げていたといいます。この区域の石炭は質が良く、三川,四山の石炭はカロリーは高いが硫黄分が比較的多いので、有明坑の硫黄分が少ない石炭とブレンドして品質の安定化を図っていたとのことです。坑口は、大牟田市の隣町の高田町の矢部川河口にあり500トンの船も付けられる埠頭もあり、干満の差が大きい有明海(6m~10m)にあっては、干潮時には船底が海底につかえてしまい満潮の時にだけ積み込み積み下ろしをしたそうです。柳川市の 橋本開き という所には開削途中の竪坑まであったと言います。三池炭鉱とは昭和52年に坑内でつながり、ベルトコンベアラインの完成後直接三川坑へ石炭を搬送出来る体制が整い、本格的な開発が行われました。

三池炭鉱の炭層は新生代第三期層の地層で6300万年前~2300万年前に形成されたと言われていて、地上から上から順に炭層を一番層から十番層まであったそうで、七番層を本層 五番層を上層 三番層を第二上層と言い 炭層の高さが6mから2mあったようで炭層の厚い所では、炭層を上下2段に分けて採炭機械を配置したと言います。またところによっては一番層も炭層が厚くて採炭したようです。上層と第二上層の間には含水層があり、開発時には出水に悩まされたと言いますが、時間が経つと自然に水が少なくなったと言います。このことから4000万年の間に10枚もの炭層があることから、陸地になったり海になったりを繰り返した証しでもあり、これは寒冷な氷河期と6000年前の縄文海進のような温暖な時期を繰り返したことを意味しており、地球は暖まったりは冷えたりを繰り返しているようです。筑豊炭田や唐津炭田 有明海北部の佐賀県南部の炭田と同一時代の炭田のようですが、炭層が厚いことが何よりも三池炭鉱を日本一の良質な炭田にしたようです。三池炭鉱にはボタ山がありませんでしたが、うめたて用地に捨てられたり、谷間の個所の埋めたてに使われていましたが、これらがいっぱいになると坑内から排出された黒ボタ(頁岩)は船に積み込まれて四国沖の太平洋に海洋投棄されていましたが、白ボタ(砂岩)は有明海の陥没対策としてこなごなに破砕されて船に積まれて陥没した海底の埋め戻しに用いられました。聞くところによると、埋め戻した所はタイラギ貝やあさり貝などがよく育ったため、魚連からの要請がひっきりなしだったとのことです。また、坑内水はミネラル分が多くて 海への排水口のある周辺では 海苔 の育成が非常によくて良質の 有明海苔 が取れたようです。

三池炭鉱の地下の坑内の中は東京の地下鉄ほどではありませんが、主な所は蛍光灯が点灯し明るく、地下の水平坑道には電気機関車が走り廻り、資材 石炭を積んだ列車が走っていたようで、古い人の話では東京丸の内の電車は3分毎ですが三池炭鉱の電車は2分おきに走っていたと言います。また、坑内を走る石炭を積んだ列車の先頭は東芝製の電気機関車が2台連なり 重連電車と呼ばれ 貨車が最大34輌接続され1編成で200mあったと言います。三池炭鉱の坑内のレールをまっすぐに延ばすと、大牟田から岡山までの距離になったそうです。石炭の採掘現場の 払い と呼ばれたところは、小さいながらも蛍光灯が点灯して明るくて、巨大な採炭機械がゴウゴウと音を立てて石炭の壁を削り取って行く情景は豪快で、これぞまさしく 男の職場 であったと言います。炭坑と言うと、カンテラにつるはしでゴソゴソと穴掘りするイメージでしかありませんでしたが、実際は機械化と電化が進みかなり大掛かりにシステム化された装置産業であったようです。

各ヤマで採掘された石炭は、坑内のベルトコンベアでポケットと言う一時貯蔵所に貯められ貨物列車(JRのような大きな列車ではなく、1/3程度のミニ列車であったようです。)に積み込まれ、10~15km坑内の鉄道で運ばれ三川坑の坑底で再び大型ポケットに貯められていました。そこからは、大型のベルトコンベアで三川坑の斜坑を駆け上り地上の選炭工場で水洗されボタと石炭に比重の差でもって選別されていました。(比重溶液に漬けられて、沈んだものがボタで浮かんだものが石炭であって、発熱量別に分けられていました。)選炭工場は三川坑の敷地内の巨大な建物で、その昔三池争議の時には労働者側と会社側の人達の間で争奪戦があり、総資本対総労働の時代の象徴的な場所であり、諏訪川をはさんで小川開きの社宅の向かい側にありました。選炭した石炭は、三池港周辺の貯炭場に積み上げられて三池港に入ってきた最大2万トン級の船にリクレーマーという首長恐竜のような巨大な機械で積み込まれていました。また直接引き込まれた国鉄の貨車に積み込まれて鉄道で出荷される石炭もありました。しかし、値段が海外炭より高いために売れ残りあちこちに黒山の貯炭が出来ていました。最後の頃には、新港町の社宅跡地までが貯炭場になりました。

人工島は先の二つ以外に、南新開竪坑(宮浦坑) 新港竪坑(三川坑) 港沖竪坑(四山坑)があってそれぞれ新鮮な空気を取り入れるためのものと、汚れた空気を排出するものとがあり 初島には巨大な3,000kWのモーターでまわす扇風機(軸流ファン)が運転されていたと言い、年に2回補修の人達が船に乗って陸から渡って来ました。初島は排気用、新三池島は入気用で、それぞれ直径が8~9mほどあったと言います。これが地中深くまでまっすぐに垂直に掘削され、その深さは180mと520mありました。新三池島は冬場渡り鳥などが空気とともに吸い込まれてしまい、飛び上がれきれずに坑底でバタバタとしていたと言いますし、おだやかな晴れた日では初島を小高い丘や飛行機から有明海を見下ろすと白い煙(湿度が高く温かいための水蒸気)が立ち上り青い海に映え実に壮観だったと言います。

大牟田川河口の先端にあった南新開竪坑には、昭和24年製の三菱電機製の400kWの直流電動機を使用したエレベーターがあり、地下180mまでを結んでいました。この他に、明治時代に活躍した万田竪坑と宮の原竪坑 勝立竪坑があり文化財としての保存運動が大牟田市荒尾市の有識者の間で盛んになっています。旧四山坑(四山神社即ち”虚空蔵さん”の裏側にあたりますがここにあった竪坑は、嘗て笠智衆の映画にも出てきたこともある威風堂々としたコンクリート製の櫓があり、大正時代の巨大な東芝製の1000kWの電動機が置いてありました)は、処分されてしまい大変惜しいことをしたものだと思いました。

三池炭鉱の石炭の質は、かなり良質の瀝青炭で製鉄用に向いていたと言われます。6,600kal~7,500kcalあったようで新日鉄や川崎製鉄に引き取られたようです。それ以下の石炭は一般炭と称されて、石炭火力用として電力会社に引き取られてさらにそれ以下の4,000kcal程度のものは、三井アルミニウム工業の石炭火力用の燃料に使われていました。(15.6万KWと17.5万kWの自家発電所がありました。)しかしながら三池炭鉱は明治時代から湧水との戦いで、炭1トン当り水10トンを出さねばならないようで、相当数の大小のポンプが動いていました。(団琢磨が電報でイギリスに動力部分が地上に据付できるデービー卿筒のポンプを注文し開削間もない勝立坑の水没を救い、三池炭鉱の基礎を築いた話があります)日本の高度経済成長に伴う人件費の高騰,資材費の高騰で石炭のコストが高くなりまた年々遠くなる採炭現場までの時間の増大化による労働時間の減少によって、出炭効率が低下して次第にコスト差が開いて海外炭に地位を奪われて行きました。労働史に残る三池争議の時期に、会社はつぶれてもヤマは残るなどと言った人は全くコストに対する意識とやがて訪れる市場価格が主役となる時代の到来を読み取る眼が無かったのではと思います。

大牟田市の岬町(田中さんが大牟田市に住んでいた頃は、小浜社宅の西側にあった堤防の外を埋め立てていたと思いますがその地が今ではりっぱな陸地になっています。)に石炭資料博物館がありまして、ここには三池炭鉱に関する資料がたくさんあります。坑道や設備の模型、石炭コンビナートを構成する大牟田市内の各工場、坑内で使っていた器具や設備、旺盛当時の写真、三井家と三池炭鉱の関係、その他いろいろです。また、模擬坑道の展示室には実物の竪坑エレベーターで入坑の擬似体験できるコーナーと、実物の採炭機械が置かれ、採炭切羽での現場の雰囲気をちょっぴり味わうことが出来ます。ここでは、近代の石炭鉱業の歩みが一手に分かりますので、資源工学や土木工学を志す人は必ず見ておくべきだと思います。

鉄と石炭が今日のイギリスにしたなどと、いつか英作文で習ったような英語のことわざを日本と言い換えても十分通じるものでありますが、終戦後間もないころ多くの人達に働く場所を提供し国策として鉄とともに日本の再構築を推し進め、近代技術史においても 産業の母として基礎技術の進歩発展をリードしたとともに、労働史上にも残る三池争議においても日本が高度成長期に入るために労働者の基本的人権を擁護する立場から、それまでの労働者への一方的指名解雇がなくなり、労使相互の協議テーブルに基づく解決方式にこの時点を境にして労働問題の考え方が大きく変わり、の後の多くの労働争議について解決方法に新たな切り口を与え、対決の時代から協調の時代へと移り変わりました。しかし、日本人の勤勉さゆえに自らがもたらした高賃金高コストによる市場価格における競争力の喪失が、21世紀目前にして石炭が歴史の檜舞台から遠のいて姿を消したのはつい間のことです。 (124年間続いた三池炭鉱は1997年3月30日に閉山しました。)日本が新しい時代を切り開いて行くためには、避けて通る事の出来ない道筋だったのです。さぞかし益田孝や団琢磨も草葉の陰で惜しんでいることと推察されます。 

田中さんが少年時代を過ごされた地方の小さな街”大牟田市”は、東京から見ればほんの小さな一都市にしか過ぎませんが、日本の社会的な歴史から見た存在価値は決して小さいとは言えないと、私には思えてなりません。日本では、カタカナ言葉があちこちにはびこり、最新の流行歌などは英語の単語を並べてあるだけで、昭和40年代のフォークソング黄金時代を過ごした私達の世代である おじさんおばさん連中 にはどういう意味なのかさっぱり訳がわかりません。南米のブラジルやペルーの日本語のほうがより日本語らしいと言いますがいかがでしょう?パラグアイは山梨県や栃木県のように海が無い内陸国のようで、19世紀には南米では屈指の豊かな大国だったようですが、日本とどことなく歴史の歩みが似ているのを知り、ますます親しみが湧いてきました。文化人類学的にも古代の貴重な遺跡が多いのではと推察されますがいかがでしょう? 

58・炭坑節
炭坑節に関しては一年後輩が下記のように説明してくれました。
昭和30年代に炭鉱節の本家は三池大牟田か筑豊田川かの論争があったそうです。軍配は筑豊田川に上がりました。私もこれは社会人になって知ったことですが、この歌は「月が出た出た月が出た、三井炭鉱の上に出たと日本人の耳になじみやすい全体が七五調でまとめられています。しかも歌われている内容が、抒情詩・叙事詩、日本的ユーモア、地名のごろあわせ庶民の生活や楽しみ悲しみ、男女の会話、はたまた白蓮事件のようなことまで数多くの内容を含んで全部歌うと50番ほどあるようです。最初の作者は、筑豊の田川市の中学校の音楽の先生(小野先生だったと記憶します)だったと言います。(大正時代の自由かっ達な時代の息吹を感じます。)これを核に、平家物語のように次から次に付け加えられていったようです。しかもこれを広めたのは、戦前に田川市の後藤寺の芸者さんがレーコーディングしたものが最初にはやり出して、戦後まもなく田川郡川崎町の赤坂小梅という芸者さんがコロンビアレコードで人気を博し、草創期の紅白歌合戦で国民的な愛唱歌になったと聞いています。井上陽水などのように、音楽に関しては破格の人を生み出し易いなにかが福岡県筑豊地方にはありそうです。月はどこに出たかでは、三池大牟田の人達は”三池炭鉱の上に出た”と歌いますし筑豊の人達は”三井炭鉱の上に出た”と歌うのが出身地の見分け方のひとつとも言います。広めたのが芸者さんで、しかも今では各地の盆踊りや夏祭りには欠かせない国民的な民謡であるのもなんだか日本的なおもしろさがある感じがします。

59・社宅
大牟田・荒尾には三井グループの会社が多くあり、転入・転出は頻繁にありました。企業城下町とも言える市内には社宅が至る所にあり、当方もそのような社宅に住みました。まず感じたのは庭が広い事でした、母は朝顔やダリア等、花の他に学習の意味も込めて何種類かの野菜を植えてくれました。茄子、きゅうり、とうもろこし、苺、へちまなど、植えてから収穫までのプロセスを観察出来た事は非常に良かったと思います。そして一番嬉しかったのはここで初めて自分の部屋を持てた事ですね、余り広くない北向き、便所の隣という部屋でしたが、それでもとにかく自分の部屋というのは良いものです。また海に近いので潮のかおりが漂っていました。土を掘ると1メートルもしないで完全な粘土質の土壌となりました、これをここでは牟田と呼んでおり、地名の由来にもなったそうです。社宅の中央にはロータリーが在りその横に「購買所」なるものがありました。要するに会社直営のスーパーマーケット(コンビニ?)という訳で、主なものはここで購入する事が出来ました。定期的に買う物は配達してくれました。


(写真:社宅で)

60・九州弁
東京から転勤して最初に驚いたのは言葉が全く違うという事でした。当時大牟田弁はかなりきつく、学校で先生が何を言っているのか最初は理解出来ない程でした。「なんばしよっとね、しったしよって・・」(何しているのだ、なまいきに・・)、突然言われてもさっぱり分かりませんでした。最初に南米に行った際には事前に語学の勉強などせずに行きましたので、言葉は全く理解出来なかったのですが、この時の経験があるのでそれほどは慌てずに済んだように思います。そしてもう一つ驚いたのは、生徒が教科書を読む時に全員が棒読み、彼らにとって標準語は「書き言葉」であって、「話言葉」で無い事に気が付きました、敬語(丁寧語・謙譲語も含めて)は九州弁とはルールが異なり皆には非常に難しいらしく、これは当方の独壇場でした。このようにして東京とは全く違った生活が始まりました。両親もかなり苦労している様子でした。ある朝、タクシー会社に電話し、「8時15分前にお願いします」と依頼し、その時間に待っていたのですが、8時になっても来ないので「どうしたのか?」とクレームの電話を入れました。タクシー会社は「依頼されたのは8時15分前、8時15分の少し前、8時10分には行く予定になっちょります。」との返事でした。東京では「8時15分前」というところを九州では「8時前15分」と言わなければならない事を初めて知りました。その後、自宅に学校の友達を連れて行きますと、母は「何を言っているのか全く理解出来ない」と首を傾げていました、子供であった当方は短期間で抵抗無く言葉を覚えていたのでしょう。しばらく経過しますと時々母の「通訳」をしていました。

61・銘菓
名産品に「黒ダイヤ羊羹」というのがあったのを覚えています。石炭のように多面体にゴツゴツさせた少し大き目の黒い羊羹で味はどうだったか記憶にありませんが、とにかく非常に甘かった記憶があります、これは現在でも筑豊の田川市にはあるようです。そして一番おやつに食べたのが饅頭なのですが、これは茶色の薄皮に中に餡子が入っている物で非常に美味しかった、しかし名称が何と「馬糞饅頭」、幾ら見た目が似ているからと言っても食べ物に「馬糞」とネーミングする感覚というのは・・飯塚名産に「ひよこ饅頭」なるものがあり、こちらはひよこの形で可愛らしく作ってあり、味よりもまず見た目で消費者に訴える名物だと思います。でもあの馬糞饅頭また食べてみたいものですね。ただお菓子は全般的には非常に甘かった記憶があります。そしてせんべいのようなものは余り無かったように記憶しています。団子も甘いものだけで、「東京には醤油味の団子がある」と友人に話をしましたら、笑われてしまいました。

62・自転車に乗る
九州の自然に恵まれた生活をし、どうしても覚えなければならない事がありました。「自転車」に乗る事です。自動車がまだ家庭には無いこの時代、街の中心に行くにも友人の家に遊びに行くのにも海やプールに行くのにも自転車を利用して行かなければならないのです。東京の時には学区は狭く友人の家にも歩いて十分に行く事が出来、街に行く時には電車で行くのが普通で自転車に乗る必要など無く、持っていなかったのです。最初は補助輪を付けて練習し、慣れるのに一苦労しました。運動神経が鈍い上にどうしても2点だけで倒れないという事を信じる事が出来ずかなりの時間を費やし、家族にも迷惑を掛けました。自転車に乗れるようになってからは行動範囲がグンと増し、県境を超え熊本県、佐賀県までも足を伸ばす事が出来るようになりました。

63・海
大牟田市に住んでみますと夏が暑く、非常に長いと感じました。東京では秋風が吹く時期になっても暑い日が続き、「南国」だと感じたものです。暑い時には泳ぎに行くのが一番と市民プールもしくは有明海に出掛けました。まずは海、小学校の学区域は広く、三池港の近くにある社宅も含まれていました。そこから少し歩くと有明海に出ます。遠浅で干満の差が大きい有明海、油断していると水面がみるみる上がって来る記憶があります。海は豊かで海苔が干されている場所があり、また蟹や海老、ムツゴロウなどが沢山生息していました。炭鉱や三池港で働いている人達が非番の時にはここに来て釣りをしている姿が沢山みられました。海に入りますと豊かさが実感出来ました、海老が跳ねている場所で水面すれすれで口を空けていると小海老が飛び込んで来る・・という事もありました。自然に親しみ東京とは違う少年時代を体験する事が出来た事は良かったと思っています。

64・プール
当時は学校にはプールが無く、水泳の時間というものも無かったように記憶しています。皆が利用する市民プールは野球場などもある延命公園という市民公園の中にあり、何時も多くの市民特に子供達で混んでいた記憶があります。初夏にはここで甲子園の予選も行われていて、途中に立ち寄り観戦していました。ただ目の病気に罹ったことがあり、また更衣室も臭気が漂い、衛生面での問題があったように思います。プールはごく普通の50メートルプールで、多くの子供が遊びに来ており、暑い日は芋を洗うような状態で泳ぐことろではありませんでした。朝早い時間などに行き泳ぐ練習をした記憶があります。外で売っている鮮やかな色の甘いアイスキャンディーは水泳後の楽しみでしたね。

65・六文字
小学校時代はよく「六文字」なる遊びをしていました。どうやらこの地方独特の遊びのようで、野球の3角ベースのような場所でゴムボールを一個使い、それを拳で打つのです、ベースは地面に大きな円を描き、多くの人が入れる大きさになっていました。ヒットですとチーム全員が走り出し、ベース以外の場所で球を投げられて当てられるとアウトとなります。ベースは安全地帯という訳です。バッターはホームに居る者であらば誰でも良かったように記憶しています。一周回ると一文字でチームの中で誰か一人が6周回ると六文字が成立してアウトになったメンバーも全員生き返りまた最初から始める事が出来ます。全員がアウトになるか、フライを直接捕られると攻守が入れ替わるというようなルールであったように思います。大勢がたった一個のゴムボールで楽しめるゲームで、走り回らなければならないのでかなりの運動となり、また、打つ人、相手を誘い出し球を上手に打たれる人、ぐるぐる廻り6文字達成を狙う人等、作戦、チームワークも大切でした。あの遊びは今でもあるのでしょうか?

66・魚
大牟田市が面している有明海は豊かな海で海産物が多く採れていました。当時の大牟田では魚が肉類よりずっと安かった記憶があります。名産は舌平目、高級魚として有名なこの魚が当時は非常に安く、醤油味の煮魚にしてよく食べました、大牟田では「くっつぉこ」と呼んでいました。初めは何だろうと意味が分からなかったのですが、「靴底」の事だったのです。なるほどそう見ればそうも見えますが、何か余り美味しそうで無い名前ですね、もう少し考えて名前を付ければ良いのにと思ったものです。貝類も豊富で、海で遊んでいると貝が沢山取れましたね、一番多かったのは青柳であったのですが、当時は「バカ貝」と呼び余り大事にしていなかったですね。そして、大牟田名産として今もよく知られている県境近く、三川町・今村食品工業の「四ツ山漬」は貝柱の粕漬け、美味しかった記憶があります。また、魚屋には鯨があったのを記憶しています。この当時は鯨はまだ庶民の蛋白源であったようです。

67・川
社宅の中にも水路のような感じで小さな川があり、そこでよく遊んだ記憶があります。社宅のあった場所は元々埋立地であったようで、海が近いせいもあり、小さな蟹が沢山居ました。東京から来たばかりの時には非常に驚いたものですが、そのうちに慣れてしまい、蟹が家の中を這っていても別に驚かなくなりました。そしてどじょうが沢山泳いでいました。大きく太いどじょうも多く、友人達がかなりの大物を取っていましたが、「これはどうするの?食べるの?」と聞きますと「こんなもの食べないよ」と言うのです、東京では食べていたという話をしますと驚いていました。どうやらこの地方では当時はどじょうを食べる習慣が全く無いようで、子供心にもったいないと思っていました。

68・2B弾
大牟田に来た当時はやっていたのが火薬遊び、非常に危険な遊びで2B弾という名称でした。花火の一種として売られていて、東京にもその昔はこのような火薬が売られていたのかも知れませんが当方は九州で初めて見て驚きました。友人達はこれを利用して様々な遊びをしていて、時には小動物を相手に少々残酷な事をしていましたが、これには到底付いて行けませんでした。ただ、しばらくして子供が怪我をするという事故も起き非常に危険であり、教育的にも問題であるという事で全面禁止となり、間も無くお店からも姿を消しました。

69・遠足
大牟田で体験した遠足は「歩いて行く」ものでした。遠足とは文字通り遠くまで足を延ばす事ですが、歩いて行くなど東京では考えもしていなかったので驚きました。目指す場所は小岱山という山で、学校からも遠く東の方に見えます。熊本県側に在る山で荒尾市と南関町の間にある500メートルくらいの山です。朝かなり早い時間に学校を出発し、川の土手沿いに歩き山を目指し、頂上まで登るとかなりくたびれました。現在は小岱山ふるさと自然公園として市民に親しまれているようです。

70・トンコツ・ラーメン党となる
とにかくラーメンには驚きました。それまで関東の醤油味しか知らなかったのですが、豚骨の白いスープは独特の臭みもあり、当初は全く食べる事が出来ませんでした。しかし慣れというのは恐ろしいもので、家の近くにあり、出前配達もしてくれる「来々軒」のラーメンを食べてる内に何よりの好物となり、トンコツ・ラーメン党となってしまいました。今でもトンコツ・ラーメンが大好きで、訪日して一人で何か食べる機会がある時には必ず「熊本ラーメン」を食べに行きます、特に新宿の桂花ラーメンには数回足を運びますね。しかし当時、大牟田で食べたのはもっと強烈はスープですごい臭いがあったように思います、すごい量の胡椒がかかっており、気合を入れて食べていました。ゼラチン質が多いためなのでしょうか、しばらく食べないで置いて冷めるとカチカチに固まってしまいました。長浜ラーメンで有名な福岡のは、熊本と比較すると少し細めの麺を使っており、個人的には歯ごたえのある熊本の太めが好きですね。

71・餅・雑煮
ラーメン以外でも九州では食べ物も関東とはかなり違い戸惑いましたね、その中でも餅が丸しか無いのとには最初は抵抗がありました。正月前に餅屋に特注で角餅を注文したのですが、相手は全く角餅に対しての知識が無く、「餅は丸かもの、なしてそげんか形にせんといかんとですか?」といぶかしがられました。それでも母は丁寧に説明し、正月前には特注の角餅が届き、それを四角く切り、東京で食べるように焼いて海苔を巻きいただき、ほっとした思い出があります。この地方は海苔の産地で美味しい海苔が沢山あるのですが、このような食べ方はどうも一般的ではないようで、きなこにまぶしていただくのが普通のようでした。また、正月の雑煮も全く違うものであったようです。しかしながら、これは家では毎年、東京風の鶏肉すまし汁の雑煮を母が作り、とうとうご当地風の雑煮を食べずに終わりました。

72・出汁・芋・うどん
また魚が豊富にあるためでしょう出汁には煮干を使用するのですが、それまで鰹節だししか知らず、またそれにあわせる薄口醤油にも馴染めませんでした。食べ物の名称も異なるものが沢山ありました、「カライモ」というものが何であるのか最初は分かりませんでした。「唐芋」は「薩摩芋」である事が判ったのは大分経ってからです。九州では薩摩から来た芋では無く、唐から来た芋だったのですね。そして九州のうどん、東京のものとは全く違うもので余り馴染めませんでした。醤油の違いだけでは無く、出汁、トッピングなど全く違うものでした。友人達を見ていますとこれにご飯を注文してうどんをおかずに食べており、驚いた記憶があります。ラーメンは余りにも違うので全く別の食べ物という認識で取り組んだものは良かったのですが、うどんは見た目はある程度同じなので返って最後まで馴染めませんでした。食文化の多様性をこの時期に味わった事は良かったと思っています。その後どこに行ってもその土地の食べ物を割合に抵抗無くいただけるようになったのはこの時の経験が大きかったように思うのです。

73・体重
東京に住んでいた時には余り食べずに非常に細く、ひょろひょろという感じでしたが、大牟田に移り、気候も良く食べ物が合ったのか急激に体重が増えてしまいました。最初は元気にしているよく食べるようになったと両親も喜んでいましたが、段々とデブになって来て見る目が変わってしまいました。その後ダイエットをして多少痩せては太るというのを繰り返し、今日に至るまで太目となっています。子供の時に体重が増えるのは余り良くないですね。

74・三井グリーンランド
荒尾市に三井グリーンランドなる遊園地があり、そこにはよく行きました。当時、主力の石炭産業は斜陽の一途で、三井グループの多角化に併せて出来たものです。現在のような色々なアトラクションはありませんでしたが、楽しめる施設であったように記憶しています。当事はユーカリが沢山植林されており、「将来のコアラの森」と書かれていましたが、現在の場内の地図を見ますとそのような形跡は全く無いようです。現在は白、緑の特徴あるホテルも在り、この地域では有数の観光スポットに成長しているようですね。

75・西鉄・大牟田線
大牟田市には当時の国鉄、現在のJR・鹿児島本線の他に西鉄・大牟田線が走っています。九州に来る前には西鉄の本線は福岡県の二大都市である福岡市と北九州市を結ぶ線であるとばかり思っていましたが、実際に現地に来てみてこの大牟田線が本線である事に驚きました。当時の特急は45分間隔で出ていたように記憶しています。停車駅は大牟田、栄町、柳河(現在の柳川)、久留米、二日市、福岡でした。(現在、栄町は新栄町に改称し、北へ少し移動、また大善寺に停車します。)鹿児島本線は博多を通過するのに対して西鉄は福岡・天神が終点で、天神に行きますと大きなデパート(岩田屋)があり、大牟田とは違う大都会で嬉しかったのをよく覚えています。特急を大牟田駅の次の栄町に停車するのは当初ここが始発駅であったからのようですが、大牟田駅を出て見えるほどの距離にあるこの駅に停車させる必要は無いと思っていましたが、現在でも依然としてこの駅に停めているようです。

76・西鉄バス
市内のバスは全て西鉄で市営のような公営バスはありませんでした。バスは大牟田駅が基点になっていて市内各地にバス網があったように記憶しています。駅から我が家までは「1」もしくは「2」の利用でした。どちらも荒尾駅行きなのですが、「1」が白金町経由、「2」が病院経由となっていて、途中の経路が異なり、我が家の近くの停留所付近で一緒になるというものでした。「1」はメインストリートを通るコースで距離は多少短く早く到着したのですが、個人的にはちょっと狭い道を走る「2」が好きでした。大牟田駅から自宅まで帰る時に先に「2」が来ると嬉しかった記憶があります。また、プロ野球も皆が西鉄ライオンズのファンでした。多分、福岡県全域でそうなのでしょうが、西鉄というのは地元にとっては非常に大きな存在でした。「西鉄に勤めてらっしゃる」と西鉄勤務は一種畏敬の念を持って見ていたようにも思います。

77・繁華街(築町・栄町
大牟田市の繁華街は大牟田駅より少し北側に在る築町・栄町でした。築町には大牟田唯一のデパート、現在でも営業を続けている松屋がありました。当時は品揃えも東京や福岡とはかなり違い、母には不満もありましたが、とにかくデパートがあり、買い物が出来る事は良かったと思います、街でエスカレーターがあるのもここだけであったように思います。そして栄町、西鉄の始発がここであった時代は多分こちらの方が賑やかであったのかも知れませんが、この頃には何となくすすけてしまった感じでした。名前とのギャップを子供心に感じたものです。

78・公害
築町と栄町の間には大牟田川という小さな川がありましたが、まだまだ公害垂れ流しであったこの時代、日によって川の色が違っており、異臭もかなりひどいものでした。ある時等は鮮やかなピンクの汚水が流れていて驚いたものです。市内に無数の煙突があり、ここから出る排ガスも相当なものであったと思います。この頃、ようやく公害に関して世の中が注目し、間も無く大牟田川の水の色も普通の色になりました。あの時代、水俣病は有名ですが、この地域も相当に汚れていたと思われます。魚の内臓を食べる猫が多い為か多指症など奇形の猫が多く、気持ちが悪かったのを覚えています。

79・パン
繁華街の一部はアーケードになっていた記憶があります。その中に大牟田一のパン屋である「だいふく」がありました。当時は大牟田でパンらしいパンを製造していたのはここだけで、給食もここのパンを利用していました、味の方は当時としてはそれなりのものであったように思います、緑、赤、青に色分けされた袋に入っており値段が30円、40円、50円となっていました、同じ量でこれだけ値段が違うのが不思議でした。学校でも給食には当然このだいふくのパンが使用されていましたが、質より量のお徳用であったのでしょう、余り美味しくは無く得意ではありませんでした。今でも余りパンは得意ではないのですが、この時の影響があるのでしょうね。

80・三井三池鉄道
熊本県側の荒尾市を中心に社宅と三井三池港とを結ぶ通勤用の鉄道がありました、三井の会社が運営・運行していたと思います。特にこの地区への用事も無く、また一般の鉄道、バス等と全く別に独立して走行しており、接続する場所も無いので実際に乗る機会は無かったのですが、見る機会はありました、電車は一時代前の鉄道という感じで、車両も古ぼけていました。今でもこの電車に乗らなかった事を後悔しています。以前、日本全国にこのような楽しい鉄道がたくさんあったようです。

81・柳川
西鉄柳川駅は市街地からは少々離れていて、確か実際には隣の山門郡・三橋町にあったように記憶しています。当時は駅名は「柳河」と書いていたように記憶しています。市内には堀が多く「水郷・柳川」として、また北原白秋の町として福岡県では有数の観光地になっていますが、ここで美味しかったのは鰻です。これは意外でした、と言いますのは、東京に居た時には「柳川鍋」と言いますと中に入っているのは「どじょう」ですが、これはどうやら江戸にあった「柳川」という店の名前から来ているようなのです。小さい時に親に連れて行ってもらった浅草に在る「駒形どぜう」(安くて美味いので訪日したらまた行きたいですね)の柳川鍋は非常に美味しく、九州に行く前は本場はこの柳川とばかり思っていましたので、「九州ではどじょうは食べない」事を知り驚いた記憶があります。立花藩の邸宅であった御花で食べた鰻の蒸篭むし(これもまた食べたいものです)は絶品でした。

82・福岡
時々母に連れられて福岡に出掛けるのが楽しみでした。西鉄特急に乗り一時間余り、天神にある福岡駅に到着します。目的はまずは市内でも最大のデパートである岩田屋、福岡側にある大型デパートで、大牟田の松屋とは世界が違う程大きく色々な商品が並んでいました。母と別れて店内を見て周り玩具売り場で数時間過ごした事もあります。そして、近くにあるロイヤルで昼、食事を取るというのが定番でした。(このロイヤルはその後ファミリーレストランとなり、全国チェーン展開しました。)お気に入りのメニューはポークソティー、豚の小さいステーキに焼きパイナップルが付いて来る一品で、これが楽しみで出掛けた記憶があります。福岡市は中州を境に元々は別の街であったと聞きましたが、確かに何となく雰囲気が違うと感じたものです。博多駅の辺りは街外れという感じで、博多側の繁華街は中州の近く、川端通り辺りでした。個人的には今も福岡の中心となっている繁華街、天神があり、城跡の大濠公園がある堂々とした雰囲気の福岡側が気に入っていました。最近訪日して久しぶりに福岡市を訪れましたが、繁華街が一体化していて博多と福岡その差は小さくなったように思います。

83・久留米
大牟田市にとりライバルという印象があるのが久留米市です。久留米市は福岡県と佐賀県の県境に近く、佐賀の鳥栖市と経済圏を形成しています。当時は大牟田市・荒尾市の方が久留米市・鳥栖市よりも人口も多く、大きかったように思います。しかし久留米には医学部まで在る大学があり、その付属高校は九州でも有数のレベルを誇っており、大牟田からも通学している人も居ました。また久留米から逆に大牟田市に在る中高一貫の女子中高に通学している人も多かったように記憶しています。実際に行きますと大牟田と違い、歴史のある商業都市であり、またブリジストンが在り長靴工場などゴム産業が盛んな工業都市という一面もありました。落ち着いた街並みが印象的でした。福岡からも近く、西鉄も久留米までは沢山電車(急行)がありました。

84・鳥栖
鳥栖市は佐賀県なのですが、鹿児島本線沿いにあり、福岡や久留米と経済的には強い繋がりを持っています。また長崎・佐世保方向に向かう長崎本線の分岐点になっています。さて、横浜に住んでいる祖母が九州旅行のついでに我が家に来る事になりました。長崎まで行く途中この鳥栖に降りて待つという連絡が入りました。それまで鳥栖は通過しても行った事が無く、地理感も無いので博多駅で待ち合わせる事に変更しました。また母が一度列車を間違えて長崎線に乗った事もありました。現在でもこの鳥栖と基山は佐賀県の中の福岡県という感じですね。

85・大宰府天満宮
西鉄の沿線で二日市(筑紫野市)という駅があり、ここで乗り換えて二駅で大宰府に到着します。現在の大宰府は市制を取り、福岡市のベッドタウンとして人口も増え発展をしていますが、当時はまだまだ片田舎という感じでした。学問の神様が祭られていることもあるのか遠足の定番らしく当時から現在に至るまで修学旅行や遠足などで訪れた多くの学生で賑わっています。そして、ここの名物は何と言いましても、梅ヶ枝餅、あつあつの餅の中に餡子が入っているものですが、これは美味しかったですね。

86・北九州市
北九州市は当時は百万人の人口がある政令都市として人口は全国7位、九州随一の都市でした。この当時、福岡よりもかなり人口が多かったのです。中心の小倉に行きますと、福岡よりも少々暗い、すすけた印象がありました。繁華街自体は商業都市・福岡の方が大きかった印象があります。北九州市の象徴として有名な若松と戸畑を結ぶ若戸大橋、サンフランシスコの橋に似ている等と言われていましたが、実際に見ますと工業都市の中に在り、ちょっと違う?という感じでした。

87・下関
海峡を越えて山口県・下関市は全く雰囲気が異なる街で、九州とはたったこれだけの距離ですが、明るく伸び伸びとした印象があります。武蔵・小次郎の巌流島、またこの海峡は義経が平家を滅ぼした壇ノ浦の合戦の場所でもあります。平家滅亡等はずっと昔のことと思っていましたが、中学の同級生に「那須」という姓の人がおり、聞くと本籍は熊本県五家荘、平家の落ち武者の子孫と言うのです。父の同僚に平さんが居て、こちらは本物の「平氏」、古い歴史が現代にも繋がっているのだと関心した記憶があります。そして下関条約の舞台となった場所にも行ってみました。伊藤博文が自分の地元に李鴻章を迎えて行った会議、李鴻章がここで狙撃されて下関条約は日本の思惑通りには進める事が出来なくなり、妥結せざるを得なくなった歴史の舞台です。

88・熊本
大牟田市は言葉、食べ物に関しては福岡よりも熊本に近いように感じます。大牟田市の延長にある荒尾市は熊本県、熊本市までは50キロ足らずと身近な存在でした。熊本市は九州の中央に位置しており、明治以降は一時期は福岡と並び九州の中心であったようで、当時も現在も福岡、北九州に次ぐ第三の都市です。熊本城があり、平野に広々と広がる市街地は岡山市と並び、個人的には日本で最も住みやすい街ではないかと思っています。市内には路面電車があり、駅から市街地までこれで行く事が出来ました。熊本に出掛けると何時も洋食のレストランに行っていたのを覚えています。レストランの名前は忘れましたが、何時も「タンシチュー」を食べていたことは記憶しています。そして熊本城にも何回か足を運びました。見事な実に威風堂々としたお城でした。熊本の英雄は加藤清正、広告等でもこの戦国武将が登場する事が多かったように思いますが、この熊本城の江戸期の主が細川氏である事を知るのはずっと後になっての事です。

89・水前寺公園
市内にある水前寺公園に行くのに、熊本駅からわざわざ豊肥本線に乗り水前寺駅まで行って訪問しました。当時人気歌手であった熊本出身の歌手で水前寺清子という人が居ましたが、その名前の由来になっているこの水前寺公園は落ち着いた日本庭園でした。一番印象に残っているのは東海道を模した場所で、水の向うに見事な富士山が在る景色でした。綺麗でかつ楽しい名園ですっかり気に入ってしまいました。江戸時代、あのような場所で静かに過ごしていた殿様は何を考えていたのでしょうね。

90・荒尾
荒尾市は熊本県になりますが、実際には大牟田と一体になっています。大牟田駅から出るバスも1番、2番共荒尾駅行きです。それでも県境を越えて熊本側に入ると雰囲気がちょっと違うような印象を持ちました。長い歴史で筑後と肥後とに別れていた歴史が根底にあるような気がします。荒尾市も市街地を過ぎて、次の南荒尾駅くらいまで行きますと雰囲気は全く異なり、熊本の田舎という雰囲気でした。有明海から望む島原半島の景色も大牟田から見るよりも一段と美しかった記憶があります。

91・田原坂
熊本までの途中に明治の初期、西郷さんら鹿児島の元武士たちと官軍との国内最後の戦闘が行われた田原坂があります。鹿児島本線で行きますと当時は最寄の田原坂駅は臨時駅で一部の特定の列車しか停車しなかった記憶があります。実際に行ってみますと何ら特別のものは無いごく平凡な田園風景が続き、田原坂の合戦の話を聞いても子供にはピンと来ず、当時は歴史的な意義など分からず両親が感慨深そうに眺めていた意味が理解出来ませんでした。それでも何となくこの風景は頭に残っており、後にここでの激戦について語られる際には情景が蘇ります。知識が増えた今、もう一度訪問してみたいものです。

92・阿蘇
東京に住んでいる時から阿蘇には関心がありました。世界一の火口を持ち、火口の中に多くの人が住んでいる・・どのようになっているのか興味がありました。実際に阿蘇に行きますと、のどかな広い平野感じで火口の中という感じは全く無かったのですが、山の上から見て外輪山が在り、納得しました。中央に聳えている山々からは噴煙が立ち昇り見事な景色で関心したのを覚えています。阿蘇の山々は実に見事であり、温泉もある・・阿蘇は日本でも有数の観光地であると思います。

93・日奈久温泉・玉名温泉
家族旅行で熊本の温泉に2回出掛けました。一回は県南・八代市に在る日奈久温泉、旅館から見る不知火海、その向うに広がる天草の景色はすばらしいものでした。古びた、如何にも歴史のある温泉という感じでした。活きの良い魚介類をふんだんに食べた記憶があります。もう一回は玉名温泉、こちらは大牟田から一番近い温泉で炭鉱の全盛期には三池の奥座敷と呼ばれたそうです。こちらはごく普通の街に温泉があるという感じで親しみ易い感じでした。両方の温泉共に鹿児島本線の駅に近い場所にあり、大牟田から簡単に行く事が出来ました。それにしても熊本県は阿蘇、九重、天草、球磨そして数々の温泉、変化に富み、多くの観光地を擁している、魅力ある県だと思います。

94・佐賀
大牟田市から一番近い県庁所在地は佐賀市で、確か僅かに34キロであったと記憶しています。福岡との途中に在る久留米市よりも近いのですが、福岡市、熊本市と比較して、ほとんど何ら関係が無いという感じで印象が薄かったように思います。友人達と一度だけ自転車で出掛けましたが、柳川市から家具の街として有名な大川市(大川栄策、古賀政男の故郷)を経て、九州の大河、筑後川を越え、諸富町に入り、しばらく走ると佐賀市に到着します。県境から10キロも無い距離で県庁の都市に到着、なるほど近いそして小さい県なのだと妙に関心してしまいました。九州は元々名前の通り9つの国から出来ていたのですが、廃藩置県を経て現在は7県になっています。明治維新の際には地理的にも当然の事ながら西軍、要するに官軍側に付いたので、戦勝県としての目印であるということで、県名と県庁所在地が全県同じ名前になっています。9つが7つになったのですから幾つかの国は一緒にして、例えば旧島津藩であった薩摩と大隅は鹿児島県、筑前、筑後、豊前の半分が福岡県などとなっています。豊前が分割されたのは小倉の小笠原藩が親藩であったからでしょう。そして城下町であった小倉は県庁にもなれなかったのだと思います。ただ一つの例外は肥前で、これは元の一国を二つの県(佐賀、長崎)に分割しています。(正確には九州とは別になっていた壱岐と対馬が長崎県に加えられている)このような例は全国に江戸幕府のお膝元の武蔵の例があるだけです。(埼玉・東京・神奈川の一部)個人的には佐賀市から近い久留米、大牟田が在る筑後(明治維新直後は三潴県となっていた)を佐賀県に編入しておけばもう少しバランスが取れたのではないかと思っています。明治維新直前、薩長土肥の時代、雄藩として名高かった肥前鍋島藩は先進地域で肥前国内に「長崎がある」という事もあり、西洋の文明がいち早く来て開花しており、日本で一番産業、技術が進歩し、例えばここで製造されたアームストロング砲は江戸で彰義隊の掃討作戦で威力を発揮したのは有名な話です。雄藩であった事から明治期には大隈重信、副島種臣等多くの人材を輩出していますが、江藤新平等の佐賀の乱で一気に力を失ったのでしょう。これだけの大藩、そして先進地域だったのですが、訪れた時には特にこれと言う名所も無く、非常に静かで目立たない街になっていました。現在では日本全国でも比較的地味な県になっていて、鹿児島本線沿いの鳥栖、基山などは現在は福岡のベットタウンになっています。今では佐賀市まで福岡都市圏に飲み込まれそうになっている佐賀県ですが、伝統ある地方として佐賀らしさを発揮して欲しいものですね。

95・唐津

唐津に行き、印象的であったのは「虹の松原」です、博多からの車窓、綺麗な海と松そして白い砂浜が見えていましたが、ここは特に見事な松が海岸に沿って並んでおり、まさしく絵になる景色という感じでした。海岸に沿って歩き、松浦川を渡り中心部まで行った記憶があります。この川で街が二つに分断されてしまっているような印象があります。それにしてもこの唐津という地名は良いですね、如何にも朝鮮・中国との交流の拠点、そしてノスタルジーを感じさせる地名であると思います。近くの伊万里・有田に行く機会が無かったのは残念な限りです。博多に行く列車は頻繁に出ていましたが、県庁の佐賀市を始め県内向けのバスなどは余り無く、佐賀県ではありますが、ここも完全に福岡都市圏になっていました、多分この傾向は現在はもっと強くなっていると思います。

96・島原
有明海を挟んで大牟田市の向かいは長崎県になっています。大牟田市に在る三池港から対岸の島原市まで船(現在でも1日5便)があり、比較的簡単に行く事が出来ます。実際にはそれほど緯度が違う訳では無いのですが、島原に着くと太陽がまぶしく感じ、何となく南国に来たような気になるのは不思議なものです。明治以降炭鉱と共に急速に発展した工業都市・大牟田、煙突と工場の街とは違い、港の周りには九十九島という綺麗な島があり、観光の街、そして城下町であり、島原の乱で有名な歴史の街として全国に知られる観光都市、本当に対照的な都市です。島原の名産として思い出すのがザボン漬け、ザボンという大きな柑橘類の皮を砂糖で漬けたお菓子で、美味しいというよりは不思議な味がしました。同じものが鹿児島にもありますが、こちらの方が元祖のようです。

97・雲仙
大牟田市からは雲仙岳が非常に綺麗に見えます。小学校の時の修学旅行は雲仙で、山の反対側に在る小浜温泉で一泊するというものでした。何時も見ている山に行く事が出来、二段ベットに初めて寝ることになり、なかなか寝付けず、その内に皆で枕投げをして先生に怒られたくらいの思い出しかありません、それ以外は実は余り印象にありません。阿蘇や別府等と比較するとインパクトが小さかったのかも知れませんね。

98・加津佐で海水浴
島原鉄道の終点に加津佐という場所があります、ここに海水浴に行きました。島原鉄道は起点は長崎本線が走る諫早駅、そこから島原半島の東側、海岸に沿って島原市を経て南端の加津佐まで走る鉄道です。この鉄道に乗りたいと常々思っており、父親にねだって連れて行ってもらいました。同じ海でも有明海の対岸に行きますと雰囲気は全く異なり驚いた記憶があります。この町は農業・漁業が中心のようであり、空気が綺麗で自然が残りのんびりとした雰囲気がありました。とにかく島原・加津佐間を島原鉄道で往復したので大満足でした。

99・長崎
地図を見ますと長崎県というのは非常に複雑な形をしており、平戸、五島、壱岐、対馬等の島が多くバラバラとした感じです。県庁の長崎市は中国風の寺院、グラバー邸等の洋風建築・・と異国情緒があり、他の九州の都市と全く違い最初に行った時には、その雰囲気に驚いてしまいました。当時は熊本市と大体同じくらいの人口であったと記憶していますが、平地が非常に少なく、山の斜面に家が立ち並んでいる光景も鮮明に覚えています。最近訪日した時に訪問してみますと今度は標準的な日本の都市に見えました。経験が増え視点が変化すると同じ街も全く違うものに見えるのは不思議な事です。その後、大浦天主堂、浦上天主堂を見ますと、南米にどこにでも普通にある教会と同じものでした。でもこの街に居ますと何と無く中国などが近く感じますね、九州の中でも異色の都市であると思います。

100・鹿児島
九州に住んでいた時代、家族でよく旅行に行きました。温泉等の観光地の他、歴史的な場所に行き大いに勉強になったものです。その中で一番印象に残っているのは鹿児島です。鹿児島と言いますと桜島と西郷隆盛で有名ですが、到着して一番驚いたのは桜島が目の前にある事です。噴煙を吐いている活火山の目の前に大きな都市がある・・これには驚きました。イタリアに在るナポリが同様の街だと聞いた事がありますが、この一点だけでも鹿児島は訪問する価値があるように思います。季節によっては火山灰が降り注ぐそうですが、塵肺にならないのかと心配になってしまいます。そして大きな体験がトロピカルフルーツの試食ですね。パパイヤやマンゴがあって試食したのですが、これが美味しかった。このようなフルーツが沢山食べられる場所に住みたい・・そんな思いがあり、現在に至っているのかも知れません。この鹿児島市・桜島の他、開聞岳、長崎鼻など薩摩半島の観光地を訪れました。風光明媚、海が綺麗な素敵な場所であると思います。帰りは薩摩半島に在る山川駅から博多行きの準急に乗り帰ったのですが、一番前に乗り運転席をずっと眺めていました。熊本県に入り夜になり、点燈されたのですが、電球が切れているのか暗く余り先が見えない中を汽笛を頻繁に鳴らしながら走ってしました。心配しながら見ていましたが、何事も無く、定刻無事に大牟田駅に到着しました。ただ、次の日に何となく気になり新聞を見ますと乗っていた列車が大牟田から先で事故を起こした記事が掲載されていました。

101・広島
家族で一番長い旅行は広島への旅行でした。西鉄のバスツアーに参加したのですが、関門海峡から山口県を走り、県境を越えると間もなく広島市に到着します。当時の広島市は現在のような大都市では無く、福岡からみますとかなり小規模な都市でした。駅の前にも平屋の商店が建ち並び、どちかと言いますと地方都市という感じでした。2001年に訪日した際に再度訪問したのですが大都会で、その変貌には驚きました。行き先は原爆ドームと資料館。余りの悲惨な写真、陳列物にショックを受けた記憶があります。短い期間によくこれだけ復興したものだと関心もしました。そして次に向かったのは厳島、瀬戸内海を船で渡り気持ちが良かった思い出があります。2001年に再度訪問しますと向かい側がびっしりと住宅で埋め尽くされているのには驚きました。

102・大分
大分県には数回行きました。特に印象に残っているのが久住山、阿蘇国立公園は阿蘇山周辺と九重山周辺から成り立っていますが、大分側の久住の山並みはすばらしいものでした。中学に入ると夏にここでキャンプを行い、自然を満喫しました。今では当たり前の牛の居る景色に感動したものです。そして別府、関東に住んでいますと「温泉」と言いますとまず浮かぶのは熱海ですが、九州ではやはり別府、印象に残ったのは地獄巡り、ネーミングが良いですね。そして高崎山、自然の猿の生息地として余りにも有名ですが、沢山猿が居るのには驚いた記憶があります。有名な観光スポットも無いというので県庁の大分市に行ったことはありません。なお、九州に住んでいる間に宮崎県だけは行く機会がありませんでした。(大学に入学してようやく訪問する事が出来ました。)

103・玄君
通っていた小学校には東京では余り聞き慣れない多くの一文字姓の子が居ました。聞けば多くは鹿児島県に在る沖縄本島の隣に位置する与論島からの移住者で、台風等の災害を逃れて引っ越して来た人達の子孫なのだそうです。最初は明治時代、まだ三池港が無い時代、口之津港の港湾労働者として多くの方が引越しをされたのが最初だそうで、三池港の開港の際には口之津から大牟田・荒尾に移り、その後も親戚・友人を頼り多くの方がこの地に来られ、累計ではその数は数千名になるそうです。江戸時代、島津藩は奄美・琉球統治の際に奄美は一文字姓、琉球は三文字姓、それも本土には余り見られない文字を付ける様に差別を行ったそうで、与論島は奄美の一番南に位置しているので、一文字姓の人が多いそうです。クラスに居た玄正弘君もご両親が与論島出身、とても明るく元気な少年でした、大牟田生まれの玄君、話すのは純正大牟田弁で、母などは全く何を話しているのか聞き取れず、当方が通訳した記憶があります。さて、小学校も高学年になりますと、別のクラスとなり余り一緒になる機会は無かったのですが、友人から玄君が重い病気になっている、という話を聞きました。心臓弁膜症という病気で心臓が正常に機能していないというのです。しばらく闘病生活を送った後、玄君は亡くなりました。しばらくして仲の良かった友人たちとお宅に伺うと位牌の前にアコーディオンが置いてありました。お母さんに尋ねますと生前玄君はアコーディオンが欲しいと何時もねだっていて、いよいよ危ないという時に買ってあげたらベットの上で非常に喜んでいた・・そんな話でした。余りに可哀想で、しばらく落ち込んでしまいました。

104・運動会
中野の小学校では運動会は紅白に分かれて行っていました。何故か毎年交互に勝っており、必ず勝つ方に所属するようにしていました。そして大牟田のこの小学校、紅白では無く、クラス対抗で競っていました。一年から六年まで横断的に同じクラスの者がチームとなって競うのです。ところが6年生の時には、4組でしたが、他の学年は全て3組までしか無く、4組は6年だけ、他は全学年揃って戦っていましたが、我が4組・白色は6年だけで他の学年の応援も無く寂しかった記憶があります、先生ももう少し考えるべきであったでしょう。なお、小学校一年から大学まで一度も1組もしくはA組になった事が無く、毎年なるように願っていましたが、最後までかないませんでした。

105・蚊帳
夏は東京に居た時よりも暑く長いものでしたが、その夏の楽しみは夜の蚊帳でした。暑いので開けて寝るのですが、当然のことながら蚊が入って来ます。当時の生活ではごく当たり前に使用していたのが蚊帳です。寝る場所に上手に吊るして中に蚊が入らないようします。ただ入る時に失敗しますと蚊が一緒に中に入りだいなしになる事もしばしばでした。蚊帳を吊るし、外を開け放ち、風鈴を下げてその音色を楽しみながら暑い夏の夜に寝る・・クーラーの中で寝るよりも快適に寝られたように思います。

106・給食
小学校は給食でした。当然の事ですが、東京で食べていたものとはかなり違うメニューでした。煮物が多く、とにかく野菜を煮込んで味付けしたものが主流でした。醤油味、クリーム味などの差はありますが、味付けまではどうやら同じ工程で料理していたのでしょう。現在ですと専門の調理師さんが料理するのでしょうが、当時はおばちゃんの料理であったと思います。その中で美味しく今でも忘れられない味なのは鯨ベーコンです。当時の給食では鯨のベーコンがよく出て来ました。脂身が多く、ちょっと癖のある味ですが、慣れると非常に美味しい、今ではかなりの貴重品となり、まず口に入らなくなりましたね。また食べてみたいものです。鯨はまだ安いもので、この他にも鯨カツなどが出て来ました。豚牛は高いもので、給食で「カツ」と言えば鯨でした。

107・小学校生活
丁度古い校舎から新しい鉄筋コンクリートの建物への建て替えが進んでおり、我々も新築の2階に引っ越しました。今までに無い綺麗な校舎で嬉しかった記憶があります。ただ悪戯盛りの子供たち、このベランダから校庭に飛び降りて遊び怪我をしてクラス全員が叱られた思い出があります。小学校の5,6年の担任は女性の先生でした、この時に初めて6年生を受け持つという事でしたが、質問しても納得出来る答えが返って来なかった覚えがあります。先生の中には小学2年生までしか教える事が出来ない、という先生もいました、何でも3年生の教科になりますともうご本人が理解出来ないという事でした。

108・小学校卒業
とにかく小学校卒業となりました。炭鉱産業が斜陽で不景気な大牟田市、市の予算には余裕など無く、掃除道具にも事欠く程で、学校には生徒が集まれるような講堂がありませんでした。雨が降った時には卒業式は廊下で行う事になっており、予行練習も行なわれましたが、狭い廊下、数名が並べるだけで全員が一緒に式典を出来るような状況ではありませんでした。先生、生徒の心配を余所に快晴の春の日差しを一杯に受けて校庭で卒業を迎える事が出来ました。三井関連企業の城下町である大牟田市には各地からの転校生そして転出する生徒も多く、北海道から来た人なども居た記憶があります。市内には有力な私立中学も無く、中には数名熊本や鹿児島の有名私立に進学する生徒もいましたが、卒業生はほぼ全員同じ中学に進学しました。

いよいよ中学生になります。


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