日本から南米へそして現在は北米に住んでいる野口さん、2005年に投稿されたものをまとめたものです。 戦後移住の当時の雰囲気をよく表しています。
『杉野忠夫博士、逝去後40周年記念』
杉野先生、生前の農学の志と情熱を後世に残さんと、その著作をインターネット上でデジタル化して、万人の目に触れさせ、残し、先生が言わんとした遺徳と、日本人としての定住稲作民族として、大和魂を次ぎの百年の若者の心に触れさせんとするものであります。
インターネット杉野忠夫博士遺稿集転載実行委員 野口 紘一
作者、杉野忠夫 博士
略歴、明治34年、大阪市堂島に生まれる。
東京大学法学部、大正14年卒
同年京都大学大学院入学、翌年退学する。
昭和8年京都大学助教授に任ぜられる。
昭和14年満州移民方策審議会、中央農林協議会
幹事を委託される。
昭和15年満州国開拓総局参与に任ぜられる。
昭和19年石川県修練農場長に任ぜられる。
昭和20年農村更生協会理事を委託される。
昭和27年国際農友会理事を委託される。
昭和28年高知大学農学部講師を委託される。
昭和31年東京農業大学、農業拓殖学科長を任ぜられる。
昭和32年、移住者助監督として南北アメリカ8ヶ月出張する。
昭和37年日本学生海外移住連盟顧問会長を委託される。
昭和39年農学博士の学位を授与される。
昭和40年6月29日、急性心不全の為に逝去される。
従五位に認され、勲四等を贈られる。
紀行文収録先、非売本『杉野忠夫博士遺稿集』より。
発行、 東京農業大学拓殖政策研究室
昭和42年3月、杉野忠夫博士遺稿集刊行会
『南米開拓前線を行く』のご紹介。
昭和32年12月31日、ブラジル丸に800名もの移住者を乗せて日本の港を出航した行ったが、横浜からブエノス・アイレスまで49日の船旅で、パラグワイまで移住者に同行した、その移住監督としての記録された紀行文の紹介です。
冬の太平洋航路
昭和32年の暮もおしつまった12月31日の朝、この年の南米ゆきの最大多数の移住者800名を乗せた大阪商船のブラジル丸に、私は移住助監督として乗りこみ、冬の太平洋を東へ向かって、黒潮を横切って進んでいった。荒れ狂うアリューシャン列島よりの航路の1週間は、1万トンの巨船も揺れに揺れて、太陽の光が鉛色の低く垂れ込めた雲の隙間から覗いたのもわずかなの間で、あとは、開拓者の人々の前途をしのばせるような、激しいしぐれが甲板を叩き、船窓に打ちつけられる日が幾日も続いた。船がアメリカの海岸に近くずくにつれて天候は回復し、それと共に気温もぐっと高くなって、横浜をたつときは冬の最中であっのが、最初の寄港地、アメリカのロスアンゼルスへ入港した時は、1月11日だと言うのに、もうすっかり春の気候になって、海ばかり眺めていた船中生活にウンザリしていた人々は、はじめて見るアメリカ合衆国の港の風景に、あかず見入って甲板をうずめつくした。私にとっては、これは五年ぶりのロスアンゼルス訪問であったが、わきおこる感激は、また無量のものがあった。この前の昭和28年の農林省の嘱託によって、農村更生協会が派遣した第2回の派米農村青壮年実習生の団長として、約8ヶ月間このカリフォルニアの農村を行脚し、無事に83名の諸君と共にその使命を果たし帰国するとき、いつの日か、またこの地を訪れる事が出来るであろうかと思っていたのに、はからずも5年たった今日ふたたびこの地を訪れ、なつかしい風景を見る事が出来たことに、天の使命のまにまに、自分の生涯が編まれているような感激をおぼえたことである。
これから約8ヶ月、私の踏破しようというアルゼンチン・パラグワイ・ボリビア・ブラジルの開拓地帯の前途を思い、どうしてこのような生涯をおくる事になったかと、もう60に手がとどきそうになった自分の過去を振り返って、私の若き日の悩みの中に、その出発点をさぐり当てたのである。若き日の悩みこうした書物に自分の自叙伝めいたことを書く事は場違いであろうが、それにかかわらず、ここから筆を起こそうと考えたのは、これからの海外拓殖運動が何ゆえに必要かなどという、一般的な理屈を述べるよりも、なぜ私が海外拓殖への道に、日本の未来を発見したかと言う自分自身の生涯の歴史を語ることの方が、かえって力強く主張できると思ったからである。
最近、海外移住の必要性を色々な角度から叫ぶ人が沢山でてきた。ことに昭和33年はブラジルで、日本移民50周年記念祭が催されて、多数の名士がブラジルに行ったりして、いっそう日本人の海外発展熱が高まって来た事は、まことに喜ばしいことであるが、海外移住、あるいは海外拓殖は、現在の日本が抱えている、いろいろな問題の解決方法の中の一つに過ぎないと言う程度の大変おとなしい主張に留まっている。
私がこれから述べ様とするのは、それとはだいぶ違って、もっと調子の高い主張である。それは日本人の海外拓殖活動こそ、日本人の、世界人類の幸福に寄与する唯一無二の天与の使命であると言うことを、いわんとするものである。私にとっては移住とか、海外拓殖とかいう問題は、過剰人口の対策と言うような、消極的な社会政策でもなければ、あるいは帝国主義とか、植民地獲得とかいう時代遅れの植民地政策でもなく、さらに八紘一宇といった過去の亡霊でもない。自分自身が時代と共に苦しみ、幾多のあやまちを犯しつつ、たどり着いた峠に立って、前途に眺めた広大な活動の新天地を、あとに続く若い人々に告げんとする熱血の絶叫である。
意気揚昂としてブエノスアイレスに着く
横浜港を出帆して49日。昭和33年2月16日午前8時、港港にはそれぞれの国々への移住者をおろし、最後にアルゼンチン(9人)とパラグワイ(93人)へ移住する112人の人々と、この航海の終着港のブエノスアイレスの岸壁にブラジル丸は、静かに接岸しはじめた。北太平洋の冬の荒天で渡航洋上で急死した鬼塚青年。夢と不安とを織り交ぜた移住者の人々の涙なくしては聞かれないその半生の物語。バルボア・ドミニカ・ベレーン・リオ・サントス・リオグランデドスールで別れた人々。新しい運命を開拓するために、祖国を去った人々の胸に流れる筆舌に尽くしがたい、熱い血潮の奏でる大陸進撃譜を背後に、ある学生のひとりの面影と共に、私を武者ぶるいさせるのであった。
いよいよ来た。今日からはこの南米大陸に上陸して、何ヶ月かの踏査旅行が始まるのだ。アルゼンチンのパンパス、アンデスの高原、パラグワイの原始林、そして、アマゾンの大河が待っているのだ。そして、来年から始めると約束した外地実習の引き受け農場をめぐり、説得すると言う仕事を、果さなければならないのだ。しかし、それは自分の能力、自分の健康、そして、その上に軽い財布の限界をはるかに越えた夢なのではないか。岸壁のかなたにそびえる白亜の高い建物を見ながら、色々な感情が一時に湧くのであった。しかし、過去をかえり見て何度か生死の間をさまよったにかかわらず、いても立ってもおられないような苦境に立った時には、不思議と切り抜けてきたことを思い、ブラジルゆきを決意したとき、「生還を期せず」とひそかに後事を託した友に語ったほどの悲壮な決心にかわって、何が何でもやりとおすぞと、心の底から闘志が猛然と湧き出るのを感じたのであった。意気揚昂としてブエノスアイレスに着く そこで千葉学長当てに『闘志満々ブエノスに着く』と発信したのであるが、それからの 約4ヶ月。ただの一日も病気にもならず、元気でアルゼンチン、パラグワイ、ボリビアをまわって、ブラジルに入り、マットグロッソを振り出しに、南ブラジルをめぐり、北上してアマゾン大河に四週間の旅を続け、6月10日、サントス港を後に、再会を約して去る日まで、幾百人の同胞の暖かいもてなしを受けて旅を続ける事ができた。それだけではなく、この計画成らずんば死すとも帰らず、とまで思いつめてきた仕事が、予期以上の結果を納めて、サントスを出発出来たことは、ただただ、絶対無限の全能者の奇しき御手のはからいというよりほかに、言うべきを持たないというのが私の正直な感想である。
南米の旅行記や調査報告は、最近、色々と出版されている。私のわずか4ヶ月の踏査旅行の報告を、しかも、その抜書きのようなものをここに書きつずる愚かさをあえてしたいとは思はないが、私のような思想の遍歴をし、開拓者の友として、一生を歩んできた人間の、この開拓前線の踏破の実感は、また、一個の他山の石として参考になされる所がありはしないかと言う気持ちも有って、書き続ける事にした。上陸第一歩のパラグワイ
移住者の動揺。
船がブエノスアイレスの岸壁にピッタリと横着けされると、待ちかねた在留同胞の人々が続々と乗船され、あちこちに感激の対面が展開去れている間に、何時の間にか不安な空気が、かもし出されてきた。そして、それはパラグワイへ入国する人々の出発する河船が、18日の午後5時に出る事に決まり、三々五々と、それまでブエノス見物に上陸する事になると、ますます、その不安な空気が濃くなって来た。それは何処からともなく、パラグワイの移住地に入植している人々の暗い運命の話しが入ってきたからであった。それは、これから入植しようとしているフラム移住地では、収穫された小麦やトウモロコシが売れなくて、入植した人が生活に困って売り食いの生活をしているとか、もう売る物が無くなった人は脱出を企て、アルゼンチンへ越境しようとして捕えられ、牢獄に入れられているとか、あるいは、抵抗して殺されたとか、はては女はパンパンにまで身を落としているとか。ともかくも、日本海外移住振興株式会社と言う国策会社を信用し、その経営するフラム移住地の土地をすでに25ヘクタール、13万3千円を払い込んで、はるばるやってきた93人の人々にとっては、晴天のへきれきというくらいの衝撃であった事は事実である。
親切なブエノスアイレスの同胞は、そんな先の見込めない所に行ってひどいめに合うより、アルゼンチンにとどまりなさいと忠告するのであった。 上陸第一歩のパラグワイ移住者の動揺。この93人の一行は、すでにブエノスアイレスの美しい近代都市を、まのあたりに見て、また、ブエノスの花市場の立派な温室や、生活を見、さらにまた、非常な信用を得て繁盛している同胞の独占的と言ってよいほど成功しているクリーニング業者の洋風の文化生活を見たのであるから、この親切な忠告に動揺するのも無理がなかった。その上に、もっと困ったことは、パラグワイから誰も出迎えに来ていいなかった事である。であるから、現場の人が来ていて、こうした噂は事実無根だと、断固として否定すれば、形勢はまた違っていただろうが、そう言う人は誰も現れず、動揺はますます激しくなる一方であった。到着とともに移住監督の任務は終るわけだが
私は、ホテルに泊まる金を倹約して、船に18日までとどまっていたので、皆がすがりついて来る事になった。『先生、これは一体どうしたことでしょう』と、形こそ違うがこうし目に満州以来、何度もあってきた私は、『未知の世界に挑む者が、必ずあう試練が早くも来た』と感じて猛然たる闘志がムクムクと湧きたぎるのを覚えた。そして『一緒にフラムへ行きましょう。そして、皆さんが安心出来るまで手伝わせていただきましょう。』
上陸第一歩のパラグワイ移住者の動揺。
『私のところの学生も、フラムへ行きたいと言っている学生がいますし、31年にフラムへ入植した卒業生の服部孝治君がいるはずですから、そんな状態だとすれば、その実際を、私は是非確かめ、また、後続部隊が安心して入植できるようにするには、どうすれば良いか研究する事が、私の専門の学問でも有りますから、徹底的に調査もしなければなりません。皆さん、迷わずに私と一緒に行きましょう』とそれこそ断固として言い切ったのである。
実は私の最初の予定では、この人々をブエノスで見送ってから、ブエノスの花卉園芸で成功している同胞を訪問し、それから段々と北上して、ミッショネス州のオベラの紅茶王の帰山家を訪問してからパラグワイへ行こうと言う計画であったが、、こうなると、日程も予算もたたない。途中で金がなくなって立往生するかも知れない。しかし、『これが見捨てておかれようか!』と言う気持ちをどうしても押さえ切れなかった。
この3日間、さすが男達はオロオロする婦人達を励まし、『ここまで来て行き先の変更なんか、いまさら出来るものでもなし、途中でうわさ話しだけ聞いて中止なんて世間のもの笑いだ』と、荷物をまとめて出発の準備をしたものの、さすが不安の念は消しがたいものがあった。こうして2月18日午後5時、国境を流れるウルグヮイ河に沿って、パンパス大草原に沈む夕陽を横にあびながら、1500トンほどの外輪式河船は、すべる様にのぼりはじめた。
パンパス大草原、パラグワイに向けての北上。
翌日朝7時、コンセプションデル・ウルグワイの河港で上陸。それからは汽車で、行けども行けども果てしない草原の海を、北へ北へと走り続けたが、草原は夜になってもまだ続いていた。
そして20日の日も夜明けの頃、窓の外を見れば、まったく海そのものと思えるような大草原で、きのうと同じように、放牧された牛の群れが、ゆうゆうと遊んでいるのであった。国境の町、ポサダスに着いたのはやっと正午まえ。ブエノスアイレスを出発してから船と汽車とで30時間を要したわけである。これから一行の入植しようと言うパラグワイ共和国の、フラム地区というのは、このポサダスの町の対岸のエンカルナシオンの郊外にあるのである。
もう目的地のすぐ前まで来たのであるが、この両都市の間にはパラナ河と言う川幅が4キロもあろうかと思われる大きな河が、二つの国の国境を流れていて、それを渡るのに、私達の乗ってきた汽車を其のまま乗せて渡す大きな渡し船が用いられるのである。河の水は黄色に濁ってゆるやかに流れているが、2000トンもあろうかと思われる船が河の中流に停泊しており、パラグワイが日本に船舶借款を申し出ているのも、こうした内陸水運の道を開いて安価にブエノスアイレスとの物資の運送をはかろうとするのだと思った。あとで調べてわかったのだが、このエンカルナシオンからたった30時間のブエノスアイレスへのトウモロコシ運賃が、ブエノスアイレスから横浜まで、約50日の運賃の2倍とられたと言うことを聞いて、パラグワイの内陸水運の問題は大きな問題であると痛感したのである。この河を汽車ぐるみ渡って、エンカルナシオンの町外れの駅まで、30分とはかからなかった。汽車がやっと動き出したのは夜の8時、そしてノロノロと渡って夜の9時に、折りも折り、夕方から降り出した雨の降り続く、エンカルナシオンの駅に着たのである。
フラム地区の踏査から得たもの
私は、この駅のプラットフォームで一行を出迎えられた、日本海外協会連合会の長尾支部長に、まず『服部孝治君はどうしていますか』と問うと、『先生が来られると言うので、迎えに来ています』と言う声が終るか終らないうちに、暗がりの中から『先生!』と叫んで飛び出して来たのは、2年前、東京で別れた時より、いっそう引き締まった顔に、光かがやく眼差しをもった、快漢、服部孝治君その人であった。力強い握手。『とうとう会えましたね!』というのが精一杯であった。その夜、服部君に案内されて、ドイツ人の経営するセントラルホテルに落着いてから、3月4日アスンションへ去るまですっかり服部君のお世話になったのだが、服部君がここへ来てからの2ヵ年間の活動と、その旺盛な研究と調査とのおかげで、どのくらいこのフラム地区の問題の究明に便利であったか、計り知ることができないくらいであった。こうした信頼すべき同志がいなければ、とうてい短時間の間に調査などできるものではない。
ブエノスアイレスに到着早々、聞かされたフラムの暗い話しは、はたして真実か否かは私ひとりでなく、同行した入植者全体がいちばん確かめたいところであった。私は服部君をはじめ、いろいろな人たちからの聞き取りをしながら、何よりも急いだのは、現場へ行って自分の目で確かめたいという事であった。そして雨のために道路が悪くて、ジープもスリップして移住地へ、はいりかねると言うことであった。やっと2月24日、移住振興会社のジープに乗せてもらって宿を出発する事ができた。ここフラム移住地の概況をのべておかないと、問題の発生原因が分らないと思うので、ひとこと述べる事にする。
いったい、パラグワイ共和国という国に関して、戦後、南米移住が再開されるまで、日本ではあまり知る人もなかったであろうと思う。私も中学校で世界地理を習ったとき以来、名前は覚えていても、アルゼンチンやブラジルほどの印象をもっていなかった。それが、大宅壮一氏の『世界の裏街道を行く』でも面白い国だなと思っている内に、杉道助移動大使がこの国を訪問して、船舶借款とともに30年間15万人の日本人移住者受け入れの話しがはじまり、にわかに日本人の目に、パラグワイというこの南米の小国が大きくうつり出したわけである。広さといっても、40万平方キロで、日本よりちょっと広いくらいで、大きな国ではない。人口わずか150万人、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアの三国に囲まれた海のない国である。
それがどうして日本にこうして門戸を開くことになったかというと、ここにも我が民族の先駆者達の築いた実績がものをいっているのである。それは、この国がかって1865年から1870年まで、アルゼンチン、ブラジル、ウルグワイの3国を相手に、それこそ国民総玉砕に至るまで戦って破れたので、(1863年の国勢調査では、133万人いた人口が、1871年には22万人になってしまって、老人や廃疾者を含めた男子が2万人、女子が10万人、子供は8万人という悲惨な状態になっていた。)政府は国力回復のために、外国移民の吸収に努力して、色々と奨励をしていたので、ブラジルやアルゼンチンで活動していた同胞が早くもこの国に目をつけていたのである。
しかし、直接の原因となったのは、昭和8年ブラジル政府がとうとうたる日本移民の流入の恐れをなして、2分制限法を実施して、日本人の入国を年間2800人に制限したので、他のいずれかに移住地を求めなければ、ならなくなった事にある。昭和9年、当時のブラジル拓殖組合の専務、宮坂国人氏(現南米銀行の専務で在伯同胞の大立物)が調査に乗り込み翌年、日本人100家族の入国許可を得、首府アスンションの東南130キロの地点ラ・コルメーナの8000ヘクタールの土地に村造りをはじめる事になった。そして昭和11年、ブラジルから第一次の指導移民が入植してから、昭和31年までの20ヵ年の苦闘の成果は、パラグワイ政府をして、パラグワイの農業開発は、日本人によってなされるという信念を植えつけるるに至ったのである。『ラ・コルメーナ20周年史』に寄せられた、日本海外協会連合会会長の坪上貞二氏の序文は、この事を良く言いあらわしているので、次ぎに引用したいと思う。
『パラグワイ国における日本人最初の入植地ラ・コルメーナはこの20年間、退耕者問題、イナゴ群の襲来、第2次世界大戦、パラグワイ国内の数次の政変など、なみなみならぬ諸問題に直面したが、今日この移住地を守りぬいて移住者達は、良くこれらの山積した苦難を乗り越えて、今日みられるような輝かしい移住地を建設したのである。戦後、この国には後続移住地として、チャべス移住地、フラム移住地などの建設が着々進行しているが、これらの移住地の建設が可能になった根本原因は、ラ・コルメーナ移住地の完成にあった事を忘れてはならない。もし、ラ・コルメーナ移住地の建設が失敗に終っていたならば、このような後続移住地の建設の可能性はまったくなかったと言ってもよい。今日、これら新移住地へ続々と日本人移住者を送り出す事が出来る様になったのは、まったくラ・コルメーナ移住地の人々の努力のたまものである。
また最近になって、パラグワイの隣国、ボリビアへ日本人移住地の設定をみつつあることや、アルゼンチンに対する日本人の集団移住者の送り出しも、ラ・コルメーナ移住地の完成が大きな原動力となっていることはもちろんである』
ラ・コルメーナの村をその後訪問して、私はその序文が決して過言ではないことを知ったのである。フラムの移住地がこうした歴史的背景のもとに、昭和31年、32年でエンカルナシオン市の西北約40kmの所で、約6000ヘクタールを日本海外移住振興株式会社が購入し、道路・橋梁の建設と地区割りをおこなって、移住者への分譲を開始したのである。この移住地は、日本が戦後初めて移住者の受け入れ地を確保して、自作農の移住者を送り出すケースの最初のものであり、今後の移住者のあり方を示すものとして、その成績は天下注目の的であった。
パラグワイ政府も、ここへ400家族の入植許可を与え、最初の移住者が昭和31年の上半期に10戸(74人)入植したのである。その後、この地区の土地が肥沃で森林資源が豊富であり、気候が温暖で住みよく、またエンカルナシオン市へ近いことなど、色々と良いニユースが伝えられたので、高知県大正町、広島県の沼隈町の町ぐるみ移住をはじめ、入植希望者がきわめて多く、早く行かないと満植になるだろうといわれていた。そして、そういう立地条件もけっして嘘ではないことが現地へ行って見て確かめたことで、海外協会や、移住振興会社が移住者をあざむいたのでは無い事は明らかである。
だのみ、どうしてあのような不安な、ささやきが広がったのであろうか。それは、私が原始林の中に開かれた道をジープで走り、この広い移住地にすでに入植していた300戸の移住者の組織している3つの共同組合を訪問して、そこで手に入れた陳情書を一読したことによって疑問がとけたのである。それによれば、問題は生産されたトウモロコシや小麦や大豆のような農産物が、地方的過剰生産のために思うように売れないため、現金収入が不足し、手持ちの営農資金は欠乏してくるという、将来に対する不安が根本原因であった事が良く分った。
この事は、このフラムだけではなく、今後、パラグワイへ移住する人が増加すればするほど、良く計画しておかなければ、いつでも発生する問題であると思った。それは、なるほどパラグワイとしては、日本の農業者を大いに歓迎し、パラグワイの農業資源の開発を希望するところであるが、農産物の販路の問題を考えてみると、総人口の150万人の中で何人が、食料品の購入者であり、国内市場の大きさはどのくらいかということを、まず考えて見なければなららい。1950年の政府統計では、全人口のうち、有職業別人口では、約55%が農林漁業者である。だいたい国民の45%が食料品のお客としてみても、せいぜい70万人くらいのお客があるだけである。そして、いくら低い生産力しかないといっても、国民の55%が農業者であれば、残余の45%の国民をある程度は養っていると考えられるのである。この国の農業の経営規模は、平均して一戸当り3・5ヘクタールであり、総農家戸数のうち、1ヘクタール以下のものが2万6000戸、1ヘクタール以上のものが9万5000戸(1942年~1944年の農業センサス)と言う小農であるために、結局、日本の全耕地の7倍にも余る耕地を持ちながら、70万人を養いかねて主食を輸入している国である。
1952年に、6,500万ガラニー(約2億円、この国の総輸入額の四分の一)も食料品の輸入をしている事を考えると、パラグワイ共和国がその未開発の沃土を解放して、日本人に一戸当り25ヘクタールの耕地を分譲して食料増産に一役も二役も買わせようとしていることがわかる。しかし、すでに入植した300戸のフラムの日本人農家が入植2年にして、だいたい一戸当り5ヘクタールずつの耕地を開拓し、3、000トン小麦を生産したのであるが、パラグワイ国全体の小麦生産量が1万5,000トンにすぎないことや、エンカルにある唯一の製粉工場のもつ倉庫の収容力が800トンしかなく、1ヶ月の製粉能力は1、000トン。そして国中の製粉工場の能力が1ヶ月3,000トンにすぎないこと、輸入している小麦の量が3万5、000トンという数字を考えてみると、もし、この300戸の移住者が残りの20ヘクタールを全部開拓して小麦を栽培したらどうなるか。また、今後、続々と入国する何万戸と言う日本人が大いに小麦を増産したらどうなるか。ちょっと考えてみても油断がならない問題である。このような不安を除くためには、生産物の販路についての研究はもちろん、生産計画と販売計画を組み合わせ、輸送、保管、加工、輸出と一貫した指導が絶対に必要であることは常識といわなければならない。
パラグワイのような小さな国、そして、人口わずか3万5000千という一地方都市にすぎないエンカルナシオン市の郊外で、トマトやスイカで笑いがとまらないくらい現金がはいる成功者は、10戸や20戸の入植者の時代にはめずらしくもないが、300戸にもふくれあがったら、たちまちトマトの洪水、スイカの洪水である。移住地の調査には、何が出来るかと言う事とともに、何を作れば確実に収入がはいるかという経済調査、それも国際経済的視野にたって判断する調査が絶対に必要である。しかしながら、かりにそうした調査がして有ったとしても、開拓によって急激に新しい生産がおこなわれる場合には、市場の混乱がおこり価格の暴落や、円滑な商業・金融のルートが同じテンポで開かれず、ズレがおきてくる事は常識として知っておく必要がある。すべての受け入れ態勢が整って、移住者が生産し出荷さえすれば、計画どおりの現金収入が確保されることは理想であるが、現在の段階では、(将来はそうなる事を希望するが) なかなか困難と考えられる。それほど受入れ国の準備も、また、送り出す日本側の用意も不充分と思う。
そうすると、結局、こうした場面にあたってたじろがない心がまえ、開拓方式をもって、開拓を進めていくよりほかに方法がない、また、たとえ、そうした用意万端は整ったからと言って、それで開拓が成功するかというと、決してそうではない。パラグワイの例をみても、57年度産の小麦が収穫期に雨が多くて乾燥不十分となり、検査に合格しないものが多数出たのが大きな原因であった。
農業が天候に支配される事の大きい産業であるだけに良いこともあるが、泣かなければならない年もある。今日の日本の稲作の様に米価が保障されているために、昔の様に豊作貧乏という事はなくなっても、台風が一度本土に上陸したとなれば、たちまち大風水害となって惨状を呈する。開拓の道に進む者は、こうした困難をものともせずに進む、たくましい精神を持って進まなければならない。どのような自然の脅威や経済の変動、さらには政治や治安の不安に出会ってもビクともしない心がまえをして行くのが当然と考える。かつての満州への100万戸移住という民族の大行進には、その覚悟が要求されていた。そして何十万と言う同胞が、その要求にこたえて奮起した歴史は、まだそう遠い昔のことではない。国や国策機関に陳情するのがむだであるとは言わないが、頼るべきものは自分自身であるということを骨髄に刻みこんでゆかなければ、成功者にはなれないということが開拓者の金科玉条であることを、私はしみじみと味わされたのである。
フラム開拓地の二つの分町計画
さて、地区内を泊まり歩いていて、わたしは大変な有益な研究を沢山する事ができた。それは世間ですでに有名になっている広島沼隈町の分町計画と、高知県大正町の分町計画の比較であるが、両方とも分町計画という点で一致している。そして、入植がだいぶ同じ時期で、昭和32年の7月上句に、隣接する地区に入植したのである。戸数も私が訪問したとき、だいたい同じくらいで、大正町は70戸、沼隈町は95戸であった。ところが、それからちょうど7ヶ月たった時に私が訪問したわけであるが、大正町の方は開拓作付け面積が一戸平均9ヘクタール、沼隈町は、4.5ヘクタール、ちょうど沼隈町は大正町の半分にも達していないのである。そして営農生活の方針を見ると、大正町の方は、入植5ヵ年の現金支出は、塩と石油と石鹸だけで、食料は完全自給を目標とするとのことであった。それで、水稲を一人当り3アールから5アールで、米も食べられる様にして、自給用畑として3ヘクタール、換金作物としてマテ茶、油桐、ナランハ(ミカン)を7ヘクタール。これが生育するまでは(5年間) その間作に小麦2ヘクタール(1回作)、トウモロコシ(2回作) 5ヘクタールを短期の換金作物とし、その他に、一世帯2ヘクタールのアルファルファーの放牧地、間作にマンジョカ(1ヘクタール)以上を作付けし、畜力用の馬のほか、豚、鶏を飼い、ブドウ100本、バナナ50本は自家用という計画をたて、着々とその苗の育成につとめているありさまである。
この大正町には先にブエノスアイレスで聞いたような暗い影は少しもなく、一応10ヘクタールの開拓がすめば、次ぎは雇用移民を呼び寄せようという予定で、25ヘクタールの分譲地の半分は自家労力で直営し、半分は雇用農によって歩合耕作をして、それをその人々の自立のための前進基地として利用させるとともに、自家の経済力を培養しようという計画と考えられる。だから、少しぐらいに小麦の滞貨があっても驚かないで落着いているのである。それにひきかえて、沼隈町の方は、開拓の進度そのものは大正町の半分くらいと言う有り様であり、空気のどことなく悲惨なものがただよっていることを感ぜずにはおれない。この差はどこからきたものか、それが問題である。
先ず第一に、団員の構成がまったく対照的である。母国の大正町は、高知県の山村であり、人口の増加と生活程度の向上が山林資源の急激な欠乏をきたし、どのような更生策も不可能という壁にぶち当たった住民の総意を背景としての分町運動であり、団員はたくましい山林の労働に鍛えられた人々で、天を圧するような、うっそうたる原始林を見て『これはしめた!』と喜びを隠しきれなかったという人々である。それに反して沼隈町は広島県でも有数の港町で、尾道に接する海運業が盛んなところであり、移住者の中心をなすのはその町の人々であり、真の農業経験者は五分の一に過ぎないと噂されていたのである。
第二に、大正町では農家に生まれ、小学校卒業以来、役場の給仕を振り出しにたたき上げ、無冠の町長といわれた助役の山脇敏麿氏自身が全団員の信望を一身に集めて、みずから団長として陣頭指揮をしているのに対して、沼隈町は農業の経験のない立命館大学文学部出身の心理学者森太光氏と、沼隈町の前町長神原氏の親戚筋
で、尾道の呉服屋の若旦那であったという小林氏が、団長および副団長として赴任してこれらたというのであるから、まったく対照的である。第三には、大正町では、母国の町と農協が全力をあげて移住者の財産処分を有利におこない、いずれも相当の資金を準備してきているのに対して、沼隈町では、この計画の企画の推進も前町長であり、沼隈町の最大の財閥である神原汽船株式会社社長の神原氏個人が中心で、彼が土地購入費も営農生活資金も全部用意して、移住者は徒手空拳で行って働き、その生産物を組合に出荷すればよいと言うめずらしい方式をとった点である。この方式を神原氏が考えつかれたことは、耕地が乏しく、漁業や造船業や、運送業によって生活している瀬戸内海沿岸の人口過剰の町村の二、三男対策として、またいったん、不況に見まわれた時の対策として、海外に広い土地を用意しようという遠大な理想に立脚したものである。そのために海運や造船で得た利益を投げ出して、沼隈町の人々の永遠の幸福をはかろうとされた事は、現代資本家の模範とすべきである。さらに、私財を投じてこの原始林の中に、設備の完備した病院を寄付し、京都大学の結核研究所の栃木医学博士を院長に赴任させるなど、ちょっと真似のできない仕事をされている。しかし、その結果はどうかといえば、開拓は進まず、生産はあがらず、販路は狭くて自立の階段は遠く、会社からの救援資金の到着を待つばかりと言うことになったのが、色々なデマの原因となったのである。
私が訪問した時は、ちょうどその絶頂であったように見えた。その後、真相が母県の広島県にも伝わり、県も積極的に救援に乗り出し、またいちばん心配されたトウモロコシも販売されて現金収入も入り再生の道へ進んだと、最近の便りにあったので私も安心した。この二つの型の分町計画は、今後、こうした計画を進めるうえに非常によい参考になるであろう。そしてまた、色々なデマまで飛んで、関係者を驚かせたことも相当に大きな効果があったのではなかろうか。それは、あとで日本に帰って聞いたのであるが、日本移住振興会社では、もちろん最初からエンカルナシオンに倉庫を建てたり、トラックを用意したり、必要な場合には収穫物の売却完了の前に内金を立替えして金融の便をはかったり、道路の修理費を補助したり、色々考えて、開拓課長に資金を持たせて出張させていたそうであるが、私が移住地を出発した後、一週間ほどして到着されたそうで、問題の大半が解決した上に、農林省の調査官の中田技官も私のすぐ後からやって来て、トウモロコシの滞貨の山に驚いて農林省に報告された。そこで農林省はさっそく船をまわして、1,500トンを買いあげたとのことで、その後、フラムからは明るい便りが次々と来るようになった。この経過から見ても、国策としておこなわれつつある開拓事業は、決して棄民ではない事がよくわかる。しかし、戦争の場合でも、時として弾薬が不足して苦戦におちいったりすることがある。また、正確な情報が遅くなって、一部隊が孤立無援の苦難の場に立つこともあるように、困難はつきものと覚悟しなければならない。
遠い他国の未知の原始林に、明日の理想境を建設するこの聖業にも、創業の難は当然のことと覚悟するべきであろう。この苦難を出来るだけ少なくするように、計画もすべきであるが、いくら装備や計画がよく、名将がいても、戦意と体力の無い兵隊ではどうにもならないであろう。移住者の量より、質と言うことが、日本の移住者を迎えようという国から強く要望されていることは、あえてその国のためばかりではない。開拓者その人のためでもあり、また日本の海外移住者全体の信用のためでもあると思うのである。
原始林を克服する戦後の青年たち
南米大陸への上陸第一歩、私達一行を襲った不安の嵐も、現地視察をして家長達の不屈の開拓魂の前にはやがて収まったのである。その事について、ここにひと言述べたいのは、一行の中に北海道の冷害に痛めつけられて、見切りをつけて移住して来た人々がいたことである。それは、笹尾、高橋、小矢沢という三家族の方であったが、北海道の原生林と取り組み、寒冷な風雪をしのぎ、短い夏には長い北半球の日の下で汗を流し、火山灰や泥炭や湿地と戦ってきたこの一家は、世界無比といわれる肥沃なテーラロシアの厚い地層と、1ヘクタール三本あれば、開拓費をおぎなえると言われる熱帯硬木の生い茂る原生林を見、一戸当り75ヘクタールまでは40万たらずで分譲できるというこの土地を見て、明日からでも天幕を張って山へはいろうと言う張り切りかたであった。これはフラムの話しばかりではない。
私は今度の踏査旅行で至るところに、北海道からきた移住者のたくましい成功の姿を見せつけられてきた。かっての日本のフロンテイーヤは北海道であり、日本人の中で一番強くフロンティーヤ・スピリット(開拓精神)を持っているのは北海道人ではなかろうかと言うことを考えていた私は、至る所にそうした実例を見て、この仮説の正しいことを信ずる事ができた。この事は、今後日本の海外進出の場合によく考える必要のある問題であろう。そして、この人々が推進力となって、一行は関西からきた二家族をエンカルナシオンの町の収容所に残して、私の滞在中に早くも入山してしまったのである。その一行の中に、年は20歳、農業高校を出たばかりの紅顔の青年がいた。お父さんのお話では、『この子が学校で南米の話しを聞いてきて、どうしても行こうと言うので、とうとう家族全員で来てしまった』と言うことであったが、その若さと健康に恵まれた、はちきれそうな身体に似ぬ、白皙紅唇の美青年で、口数も少なく素人芝居の女形にうってつけのような人柄の、この人のどこに、それだけのファイトが潜んでいるのだろうと思ったのである。名は順、姓は高橋。上川郡美瑛町出身の青年である。今ごろは、きっと、父母弟妹を助けて原始林の開拓に余念のないことだろう。
こうした若き戦士は北海道の青年ばかりではない。フラムでは私は東京の町の真中から単身飛びこんできて、頑張っているインテリ青年にも会った。私は戦後の都会青年に対する一部の人々の評価が間違っている事を、深くこの人から受けたのである。ちょうどブラジル丸がロスアンゼルス港を出て、南へ南へとメキシコの沖合いを下っていく頃であった。緯度はそろそろ亜熱帯にはいって船内は蒸し暑くなったので、皆甲板の日陰に涼をとりはじめた頃、静かにひとりで海を眺めている青年に気が付いた。私は何か慰めずにはおれない気持ちになって、その青年に近付いていった。彼は、この三月に東京都立の園芸高校を卒業するはずであったが、学校の特別のはからいで早期に卒業させてもらって12月出航のブラジル丸で、いまパラグワイへ兄さんの応援に行くという片倉君であった。お父さんは、日比谷の三信ビルに事務所をもつ貿易商。なに不自由なく、坊ちゃん生活をしてきたらしいおっとりした人柄で、無口な青年である。この片倉君を迎えに来た兄さんと、エンカルナシオンの収容所で会ったとき、私はまた驚いた。兄さんという人も、まだ25歳にはなっていないと思われる独身青年である。彼は32年、フラム入植が開始された時、誰かの構成家族として法政大学を中退して、独身青年40余人とともに入植した一人であった。彼の話しによると、いっしょに来た若い連中で残っているのは自分だけだと言う事であった。彼は何人かのパラグワイ人と掘立小屋に起居寝食をともにして原始林を開き、弟を呼んだと言うのであった。私はそのたくましい身体と、色々な事業計画を語る希望にあふれた眼差しと、久しぶりに兄弟相擁し得た喜びにみちた若々しい声にすっかり魅せられてしまったのである。
拓殖大学の伝統の火は消えず
戦前、日本の海外発展に多くの人材を送った拓殖大学も、戦後の拓殖教育弾圧の嵐の中で、一時はその名称さえも紅陵大学と変えざるを得なかったことは、もはや昔話で、いまは、伝統ある拓殖大学の名に復し、矢部総長のもとに着々と復興の巨歩を踏み出しつつあるものの、いまだ拓殖学科復活の知らせを聞かないが、さすがに伝統は争われないもので、卒業生は三々五々、南米の新天地に民族の新しい運命を開拓しようと懸命の努力を傾けている尊い姿に接することができたことは、同じ使命感のもとに、青年の養成を目的としてきた私にとっては喜びにたえないところであった。
『農大からも若い諸君を送りますから、よろしくお願い致しますよ。』『承知しました。南米の原生林には学閥はありませんよ。』しかり、学閥くそくらえである。その一人は、私がエンカルナシオンでの仕事が一段落して、アスンシォンへ出発する直前の寸暇をさいて、対岸アルゼンチン領に渡ってポサダスに一泊し、話しに聞くオベラの紅茶王、帰山農場を訪問したのち、ガルアッぺにある亞拓組合の経営する開拓実習農場で会った場長、藤田京作君である。彼は、福岡県の大地主の長男で、拓殖大学を卒業後、昭和30年にアルゼンチン邦人の結成した亞拓組合の呼び寄せで、単身アルゼンチンに渡り、オベラの帰山農場の実習生として、原始林の開拓からはじめたのである。そしてまもなく夫人を郷里から呼び、人里はなれた原始林に懸命の開拓の斧を振るっていた間に、その真面目な人格と、不屈の精神とが高く評価される日が来たのである。
それはアルゼンチン同胞の大親分、片山良平氏(亞拓組合理事長)が、アルゼンチンの同胞成功者を説き、さらにアルゼンチン政府を動かして、アルゼンチン国内に、日本人の入植許可を得て、その第一着手として、ミッショネス州に土地を求め、80戸の入植者を昭和33年度から入植させるにあたり、その指導のため、ガルアッぺ移住地の中に、開拓実習農場を設け、その場長として彼を起用したのであった。この開拓実習農場は、200ヘクタールの原始林である。彼は、ここに昭和30年9月、単身のりこみ、まず、原始林の山焼きからはじめてすでに20ヘクタールを開き、実習生を迎えるべき家を建て、開拓者に供給するマテ茶の苗23万本を仕立て、受け入れの準備をしたのである。亞拓組合の開拓実習場という構想は、実に面白いしくみで、実習生の宿舎というのがそのまま開拓者の個人住宅のモデルで、木造の頑丈なバンガロー風の洋館なのである。だから家族ぐるみの実習生も可能で、すでに3家族が入っていた。そして、200ヘクタールの原始林の開拓や育苗園の管理の仕事そのものが実習内容で、それは地方並みの標準賃金が支払われるほかに、一家族当り2ヘクタールくらいの自給農場が、各自の試験農場として貸され、実習期間はだいたい1ヵ年を予定し、その間に農業をならい、いくらかの資金を作り、それから入植するという方法である。現地の開拓訓練の方法として、まことに面白いやりかたであるが、藤田君はいわゆる訓練所長型ではなく、親切な隣り組長といったやり方で人々を指導しており、それでいて実習農場は黒字という経営手腕の持ち主で、驚くべき人材である。のちにブエノスアイレスで片山良平理事長に会ったとき、『あなたは実によい人を持っていますね』といったら、片山さんは『あんなのはめったに居ませんよ』といっておられたが、藤田君のバンガローに3日も居候をした私は、彼からしっかりとしたフロンテイア・スピリットの洗礼を受けたのであった。
次ぎのひとりは、3月30日、ボリビアのサンフアン地区の原生林の中に建設中の移住地で会った鳥崎清冶君である。このサンフアンと言う所は、ボリビアの東半を占める農業州サンタクルス州(広さは日本とだいたい同じ様であるが、人口はわずか30万、アマゾン河の上流ブラジル台地につながる肥沃で平坦な亜熱帯森林地帯)の首府、人口3万5千のサンタクルスの東北方130キロの地点に有る戦後はじめて、日本とボリビア共和国との間に結ばれた移住協定によって出来た最初の移住地である。ボリビア政府は日本人家族当り、50ヘクタールの原始林を無償でくれて、ここに300家族を入れるたる1万5千ヘクタールの移住地が設定され、昭和30年の7月、その第一陣が河を渡って苦労をかさねて入植したという所である。私が訪問した時は、すでに50戸が土地の個人配分を終り、8戸の分家ができ、後続部隊が共同宿舎に何世帯かいて、開拓中と言う段階であった。この分家が鳥崎君である。彼は誰かの構成家族としてきて、分家したのであり、まだ単身のままであるが、いまなお暗い亜熱帯の原始林の中に掘立小屋を建て、黙々として伐木、山焼き、陸稲の播種をおこない、すでに独立して2ヘクタールの陸稲を撒き付けたといっていた。この辺は、とても良く陸稲がとれるうえに、共同で脱穀精米して、サンタクルスへ出荷すれば良い値で売れるので、パラグワイのような問題はみあたらなかった。彼は50ヘクタールの原始林を開いて、ここを拓大の海外実習地にするのだと張りきっていた。『惰夫をして起こしむ』という文句があるが、まったく彼の奮闘ぶりは開拓地の中で感心しない人はいなかった。拓殖大学は本当に良い卒業生をもったものだと、その前途を祝福しないではいられない。こうした先駆者のかかげつつある伝統の火が、ますます燃え上がって行くように、心から祈りながらサンフアンを後にしたのであるが、ボリビア開拓運動がようやく軌道にのった今日、鳥崎君の夢の実現も遠いことではなかろう。願わくは、拓殖大学の学生諸君が奮起して、彼に続かれんことを。
パラナにみる産業開発青年隊の活躍
建設省と農林省がそれぞれ産業開発青年隊あるいは農村建設青年隊を組織して、内地の土木事業や土地改良事業にこれを動員し、農村の二、三男対策の一助ともし、また、近代的土木工事や機械開墾の技術訓練をして、実際的な技術者の養成に着手したのは、数年前からの事である。その当時から関係者の間では、その訓練終了者を海外に送って、建設事業にあたらせ、一つにはその国土の開発に、一つには、技能を身につけた青年に仕事を与え、自立の機会を与えようという一石二鳥の計画があったようである。ブラジルのパラナやマットグロッソの開拓前線に、それらの諸君がすでに送られて隊活動を始めて居ることを聞いていた私は、ブラジルに入ってからその方面の人々からいろいろ教わったうえに、5月19日、サンパウロ市のリオブランコ街を午前6時出発する大型のパラナ行きのバスで夜の9時、ロンドリーナに着くまで15時間の強行軍をし、そこで一泊。さらに、翌朝4時半、マリンガ行きのバスに乗って4時間、マリンガに下車。そこからまたバスでウムアラーマまで9時間。またそこで一泊。第3日目に折りよく、セラドラードスから出てきた人をつかまえて、その人のジープでセラドラードスを経て、めざすイバイ河畔の『産業開発青年隊パラナ訓練所』へ約4時間かかって到着。セラドラードスの町から約50キロの道は、原始林の中を走るだけであった。ゆけどもゆけども巨木の海である。汽車の駅のあるマリンガから250キロはあろう。サンパウロ市を朝早くたって、3日目の夕方やっと到着したのである。しかし、来てみてその甲斐があつた事に感謝せずにはいられなかった。
昭和31年6月に入植した、その第一期生の活動と私の来る約一ヶ月前に入所した第三期生の一団と会うことができ、その中でも一期生のこの二ヵ年間に成し遂げた仕事をまのあたりに見ることが出来たことである。私がこの第一期生諸君の合宿所を訪問したのが、その諸君がブラジルに来て二年近くになった時であるが、最初にサントス港に上陸した時は、天幕と飯盒しかないと言う状態であったそうである。持ちあわせていたのは、一ヵ年内地の建設隊生活で鍛えた不屈の魂と健康と少しばかりの土建技術だけであったという。
もちろん前もって連絡して有ったわけであるが、原始林をどんどん伐採してコーヒー園の開拓がおこなわれているパラナ州の奥地開拓で、大きな仕事をしているコブリンコ土地会社の測量・道路・橋・家屋建築や、運送などの仕事を団体的に請け負うことになって、ここへ送られてきたその日から天幕で生活し、飯盒炊事をやりながら活動を開始したのであった。話しがそれだけのことなら、べつにめずらしくもない。ブルジョアの坊ちゃんだって、夏休みともなれば重い荷物をかついで、日本アルプスへ命がけの山登りをして、天幕生活に飯盒炊事をするが、近ごろの日本の流行といってもいいであろうが、この諸君はいささか趣が異なっている。
それは隊員が一致団結して、各人がその能力に応じて働いて得た収入を共同計算に入れ、その中から必要経費を支出して、独立にいたるまで共同の貯蓄をするという一種の家族的共産主義の生活を実行して来た事である。そして、この団体生活に終始して今日まで来たのは、榎原和夫君という28歳の青年を頭に、年少者は20歳にようやくなったという一名である。いっしょに来たあとの5名は、特技を生かして他の日本人のところへ個人的就職をしたので、この一団とは独立してしまった。人々の注視のまとは、この12組の生活である。この諸君は、この共同の貯蓄によって土地を買い、個人家屋を建てコーヒー園の所有者になり、妻を迎えるまで、この体制を守ろうと決意したのであった。その間には、病気をする事もあろうし、ケガをすることもあろう。そういう不時の出費も予算に入れ、また、いつまでも天幕生活をするわけにもいかないから、共同宿舎も必要であり、炊事道具から工事用の工具や、開墾に必要な農具も必要である。こうしたものを一つ一つその共同の貯蓄の中からそろえていかなければならない。若い血気盛んな青年ばかりの団体生活が、となりの家まで40キロと言うような原始林の中にポツリポツリと営まれて居る光景を想像してごらんなさい。毎日毎日激しい肉体労働、考えてみただけでどんなにわびしいものであるか想像ができそうだ。しかし、この12人の青年は、この試練に打ち勝ったのである。
そして後日、全部が結婚したあかつきには、部落の公民館にすることのできる設計のもとに、頑丈で立派な木造本建築の合宿所を自力で建設したほかに、一人あたり5アルケールの土地を購入し(1アルケールは約二町五反歩、約4万2千円)、農耕班はその開拓に着手して同士のために備えつつあるほかに、四年契約のコーヒー園の雇用農にもなって貯蓄に努め 、五年後には12人が同時に結婚をして新家庭が営となめるという見とおしが明らかになる段階へきたのである。裸一貫でブラジルに渡り7年後には、完全の自作農となり得るという実例を、必ずこの一団は実現するであろう、彼らの日常生活を知っているセラドラードスの町の人々も、この事を確信して私にかたるのであった。こうした輝かしい第一期生の足跡がこれに続く第二期、第三期生をどのくらい勇気ずけていることか、はかりしれないものがある。
この第一期生の所から、さらに50km奥地にできたその訓練所は、和田周一郎氏の寄付された100アルケールの原始林の中にあるがそこに到る道路と2つの橋と、素人ばなれのしたガッシリしたその建物全体が、この第一期生の汗の結晶と聞いては、ここにはいった第三期生は一段と奮起しなければならないわけである。この訓練所の周辺は、何十万ヘクタールあるか計り知れない大樹の海で、未開の新天地なのであるから、彼らの奮起するのも当然である。ブラジル政府は、このパラナ州の奥地開拓によって新しいコーヒー地帯の設定を計画しているので、有力財団が自費で道路を作り、移住者を招き、原始林を開拓する場合、どんどん国有地の無償交付をしているので、ブラジル政府に信用のある財団がこの好機を見逃すはずはない。私はこうした世界がまだこの世にあることを、パチンコにはかない喜こびを見いだしている祖国の若い人々に知らせたいという思いに胸を膨らませて、パラナからの帰途についたのである。
アマゾンは果して緑の地獄か
今度の南米踏査旅行でアマゾン河を訪問したのは、二回であった。最初は2月1日の朝、その河口に近いベレーンの河岸に着いて停泊した時、その後、4月15日の早朝、リオからベレーンの空港へ着いてから5月の6日、マナオスの空港を飛び立ち13時間を費やして、サンパウロへ帰るまでの約4週間を、沿岸の開拓前線を文字通り、踏査した時である。 2月1日の日記に、私は「昨夜2時半、船のエンジンが停止したので、起きて甲板に出てみると、すでにアマゾン河口に到達したのか、真っ暗の海上にところどころ点滅する燈火あり、あたかも灯台のようである。また巨船が停泊したのか、満船の燈火イルミネーションのように見える。
3時半、パイロットが縄梯子で乗船。やがてブラジル丸進行を開始する。午前6時半、夜はすでに明けて、船は黄色に濁る大河をさかのぼっていく。洋々とした大海を行くように、やがて左舷はるかに緑色の。一線が浮んでいる。島か森か。音に聞く九州よりも大きいというマラジョウ島か。このとき気温は28度。甲板に出れば涼風が吹き、心身を洗うようだ。この地点はベレーンを去ること80キロ。赤道直下にこの涼風であろうとは」と書いている。はじめて見るアマゾンの驚きを、ブラジルの一角というよりも少年時代からアマゾンと聞けば身の引き締まる思いをして読んだ冒険小説の舞台へ、運命のいたずらか、不思議な神仏のお計らいか、とうとう来たという感慨にひたりながら、ベレーンに来て私を待っている常光君たちと数時間後には、面会できることを思って胸をおどらせたものである。ところが、つぎつぎとはいってくる陸上からの電信で、埠頭のストライキで船が動かないので、船は河中停泊。来船者は公用者以外は制限されているという事がわかり、ガッカリしてしまった。
やがて、船が止まったとき、やっと代表して連絡に来てくれた林君(ガマへ32年に入植した東京農大林学科の卒業生)に、4月か5月にゆっくりと来るからと固い約束をして、南へ去ったのである。それで、南ブラジルの旅を一巡しおえた4月中句、今度は飛行機で北上して、べレーンを振り出しに、トメヤス、ガマ、カスタニーアルモンテアレグレ、サンタレン、マナオス、マナカプールと泊まりを重ねてサンパウロへ帰ったのである。わずか4週間の旅であったが、大宅壮一氏の「緑の地獄」とはまったく異なるものを強く感じたので、サンパウロで新聞社の諸君にアマゾン観を聞かれたとき、私は何のためらいもなく、「アマゾンは緑の地獄ではなくて天国だ」と端的に表現したのである。それが数日後の新聞に堂々と書かれて、相当の話題になっていたらしく、後でブラジルを訪問した田原春次氏が、帰国後朝日新聞に「評論家大宅壮一氏はアマゾンは『緑の地獄』と評された。少しおくれて、東京農業大学の杉野教授が行き、『アマゾンは緑の天国』だと訂正された。等々』と、話題を引用した上で、「アマゾンについて、各界が協力して大規模な調査をし、その上でアマゾンが天国か地獄かまたは、ただの現実世界の一つであるかをハッキリさせてもらいたい」と主張され、のちに「アマゾン移住と開発」という著者を出された。そして田原さんの著書の一句が「私はアマゾンのジャングルの中に経済と文化の一大社会圏が近い将来できることを信じて疑わないのである」という力強い言葉で結ばれているのを発見して、どうやら私の方に軍配が上がりそうで愉快に思ったものである。
それから昭和34年度、外務省は農林省と協力してアマゾンへ調査団を派遣し、天国か地獄かを決定する事となった。また、それに先だって、昭和33年、ブラジル日本人移民50年祭にあたって派遣された日本農業使節団は、アマゾン沿岸の視察をして、その調査の重要なこと、すなわち、私に言わせれば、緑の天国建設への道を示唆する重要な報告を公にされている。私は広い南米の開拓前線の中でも、アマゾンの将来に最も多くを期待するひとりとして、なぜ緑の天国だと直感したかを述べたいと思う。
眠れる宝庫アマゾン
アマゾンとは、どんなところかとよく聞かれる。そして緑の地獄だという人もあれば、世界の宝庫という人もあり、その評価がまったく相反するところに、アマゾンへ移住することを、何か非常な冒険事業の様に思う人が多いようである。天国にせよ地獄にせよ、未知の世界に飛び込むことに、勇気が必要なことはいうまでもない。どんなに科学的な調査がおこなわれ、手にとるようにアマゾンの事情が明らかになっても、北半球の温帯に何万年と言う長い間、生活してきた日本人にとって、熱帯のジャングルを克服しようという仕事は、それこそ民族の勇者でなければできない仕事であるといってよかろう。しかし、それにしても研究すれば研究するほど、なぜ、今日までこのような人類の宝庫が開発されないで、ほっておかれたか不思議でならない。その人類史的意義のいかんを考えると、これこそ神が日本人民族のために温存しておいてくださった土地ではないかと叫びたくなるのである。かつて、マーシャル元帥が、『アマゾンを支配するもものは世界を支配する』といったと伝えられている。また人類を養うのは、アマゾンであるともいわれている。それはなぜであろうか。私はまず人類がその食物や衣服を植物生産とそれを飼料とする動物生産によって得ること、すなわち農業が太陽の熱と水と土壌を欠くことのできない要素としておこなっている状態が続くかぎり、不断に増加する人類を養うために、人類はたえず耕地の拡張をはかり、あるいは技術の向上によって一定面積からの収量の増加をはかっていかなければならないことは、宿命ともいわなければならないと思う。そうすると、植物生育に最も良い条件の土地を求めることは、これまた人類の宿命でもあろう。
こうした観点に立つ時、植物生産に最も有利な地帯が、熱帯地方である事は誰れにもわかる事であろうが、熱帯にも色々あって、アフリカの砂漠は水が不十分で、当分問題にならないし、人口の緻密な東南アジアは、自分自身を養うことが先決問題の土地であり、結局、その広さにおいて申し分なく、緑の魔境とされている原始林におおわれているアマゾン地帯が、これからの人類の食料基地ということになるわけである。それだのに、どうして今まで未開のままに捨てておかれていたのかという疑問がわいてくる。その答はすこぶる簡単である。それは、白色人種の手に負えなかったし、原住民や黒色人種には生産力を向上させる知能が乏しかった。そこへ日本人が足を踏み入れてから、このわずか40年の間に不撓不屈、尊い先駆者の屍を乗り越えて、トメヤスにピメンタ王国を、そして、ヴィラ・アマゾニアにはジユート王国を建設して、世にアマゾンの二大産業といわれる新産業をおこしたのである。アメリカのフォードが放棄したホードランジャのゴム園を再興しつつあるのも日本人であれば、熱帯圏下に新鮮な温帯野菜の生産に成功しつつあるのも、また日本人である。広さにおいて日本の13倍、約500万平方キロ。ブラジル全土の6割にあたるヨーロッパ全土が、スッポリと収まる、とてつもない広がりを持ち、植物資源はいうまでもなく、地下資源は何が飛び出すかわからないが、石油も発見されはじめたし、アマバにマンガンが発見されて、昭和32年から盛んに採掘されており、アルミ原鉱・鉄鉱石・ウラニウム・岩塩・石膏などが続々と発見され始めた。こうした豊富な鉱物資源のほかに、本流だけでも5600キロの長さがあり、支流を合わせれば6万キロにも及び、水量の豊富なことは世界第一というアマゾン河が、至る所に水力発電開発に好条件を有するといわれ、このアマゾン河そのものが、大きな水運交通の大幹線である。河口から1600キロの上流マナオスまでは、8000トンの大洋通いの巨船が通えるので、世界経済に連なる工業地帯としての将来性も、ますます確実になってきつつある。
また、このアマゾン河の魚族の豊富な事も有名である。いままでは、アマゾン開発の癌といわれたマラリアも、第二次世界大戦中、熱帯作戦のために米国がベレーンを基地としてマラリア予防と治療の研究をした副産物として、カモキンなどの特効薬の発見や、DDT散布や蚊の習性の研究などの成果がみのって、ほとんど絶滅に近く、かかっても、風邪をひいた程度の被害で治るようになってきた。また赤道直下とか、熱帯という言葉を聞いただけで、さぞかし暑い所だろうと想像していた私は、2月(アマゾンの夏の終り)と、4月(アマゾンの秋のなかば)の二度の訪問の体験から、その快適な気候に驚いたものだ。日中はは摂氏30度くらいにあがるが、風が吹いていて蒸し暑くなく、夕方からはグッと気温が下がって朝まで摂氏22~23度くらい、これで快い睡眠がとれるわけである。これが年中ほとんど変わらないから、まったく驚いてしまう。驚くのは、私だけではない。熱帯気候の世界的権威のウイーン大学のハーン教授も、とくにパラ州の気候を、世界で最も良い気候の一つだという通説を裏書きして、「パラにもどってくるたびに、いつも空気の驚くべき新鮮さと清澄さ、さらに私がいまだかって、世界のどこにおいても遭遇した事のない、爽やかな、穏やかな夜に心うたれるのである」といっている。こう書いてくると、現代科学と企業化された技術とが、いつまでもこの世界の宝庫をそのままにしておくはずがないことがよくわかる。現に米国の資本が鉱業開発に投資されつつある。白色人種にはアマゾン開発は、手に負えなかったということが、今日以後もそうであるかは問題である。しかし、いまや大きな全世界の前にその姿をあらわしはじめたアマゾンの資源が、何人によって開発されようとも、その農業的利用という点に関しては、おそらく日本民族の独壇場ではなかろうかと思う。それは、どうしてであろうか。私がこの確信を抱くにいたったのは、ただアマゾンを見ただけの結論ではない、それはブラジル全体における日本人の農業上の輝かしい成功を語らなければならない。 終り、
(海外拓殖秘史 昭和34年11月20日・ 文教書院収録。)