学生が終わり渋谷に本社があるゼネコンの社員としていよいよ社会人の一歩を踏み出しました。社員であった時には仕事の性格もあり、転勤に次ぐ転勤で引越しばかりしていたように記憶しています。そして、会社を辞めてパラグアイに移住し、このページを開設するまでの主な出来事を述べて参ります。
195・就職
大学、大学院を修了し、あるゼネコンに就職しました。「南米に強い」というのがそのゼネコンの特徴で、それに魅せられての就職でした。本社は渋谷にあり、本社勤務の際にはアフター5?と期待もしたのですが、民間企業に勤める身、仕事を終えて終電での帰宅という事も多かくそれどころではありませんでした。それでも昼は良かったですね。多くの居酒屋がサービスで昼食を出し競っており、安くて美味しいものが食べられました。会社に入社してから最初に赴任を命じられたのは大阪支店、しかし勤務地は岡山県、また横浜支店勤務の時の赴任地は山梨県でした。結局、会社に勤務している間めまぐるしく引越しをしました。国内でこの間に住んだのは岡山県、大阪府、京都府、山梨県、神奈川県、東京都、千葉県、茨城県と9都府県になります。
196・英語研修
入社して3ヶ月間は新入社員全員、英語研修でした。この会社では新入社員全員が外国要員として採用されていますので、即戦力となるよう期待を込めてのものでした。毎日飯田橋に在る語学学校に通っていました。それまで全員学生であった訳で、学生気分が抜けないのは当然ですが、一日英語学習というのは恵まれていたように思います。学校が終わると飯田橋駅近くのジローというパスタチェーンでおやつを食べるのが日課でした。メキメキ上達する仲間が多かったのですが、英語が苦手の小生、たいして進歩しませんでした。
197・たまプラーザ
英語研修の期間中、会社の独身寮である「たまプラーザ寮」に住んでいました。場所は田園都市線のたまプラーザ駅の近く、急行が停車して都心まで簡単に行く事が出来ました。そしてここは神奈川県横浜市緑区、実は横浜市も神奈川県もこの時初めて住みました。高級感が漂う閑静な住宅街で当時は「夢の田園都市線」とまで言われていた庶民憧れの場所でした。ただこの地名は一体何語なのでしょうか?たまはこの辺りの多摩でしょうが、問題はプラーザの方です。綴りを見ますとPLAZAとあり、これはスペイン語の公園という意味のプラサであると思うのですが、読み方が何ともヘンテコリンな「プラーザ」、これはかっこをつけてスペイン語で名前を付けて英語読みしたのかもしれませんね。そう言えば以前「東芝MEISON」というのがあり、東芝メイゾンと読ましていた事もありました。(MEISON:はフランス語で家、読みはメゾン)両方とも間違いという事を分かっていてやった確信犯のような気がします。
198・実務研修
英語研修が終わるといよいよ実地訓練、要するに職業訓練が始まりました。測量が基本中の基本、新入社員が最初にやる仕事で、これを学びに仲間と茨城県にある道路工事の現場に行きました。先輩社員が仕事をしている横で、仕事に直ぐに役立つ勉強、厳しいものでした。日中は外の研修、課題が出て寝るまで悪戦苦闘した記憶があります。どのような職種にしろ社会人一年生として誰もが味あう試練が始まりました。
199・岡山
就職して最初に勤務したのが岡山でした。大阪支店勤務となり、配属先も大阪付近になると期待していたのですが、何故か岡山県となり、意外な気分でした。岡山県の一番東の端、備前市三石という場所の勤務で、山陽本線が走っている割には田舎で三石には信号が一つしか無かったのには少々驚きました。近くには赤穂市、日生などの町があり、海を眺めに出掛けました。岡山は住んでみますと気候も良く、のんびりとした感じで結構気に入って住んでいました。岡山市にも出かけましたが、何となく熊本市と感じが似ており、住むのにはほど良い大きさに思えました。特に気に入ったのは後楽園、日本3名園に挙げられる庭園ですが、上品で素敵なものでした。また赤穂市は近く、有名な播州赤穂城にも出掛けてみました。
200・麻雀
学生時代にも麻雀をする機会はありましたが、貧乏学生の麻雀はささやかなものでした。社会人になり、山の中での共同生活、飲む以外の楽しみと言いますと麻雀でした。まず驚いたのはインフレ、役よりも東一風、○×、割れ目、鳥・・とにかく何か役を作るよりとにかく上がる・・そのような麻雀でした。賭ける金額も大きく、ちょっと付いて行けない印象があり、ほとんどやらないようになりました。最近では以前に比べて麻雀をする人が少なくなっていますが、ライフスタイルの変化もあるのでしょうが、インフレにもその原因があるように思います。東南廻しで完全先付けのルールの元、メンタンピン3色を狙う麻雀が懐かしいですね。
201・姫路
岡山の一番東に住んでいましたので、休日に姫路・神戸に足を延ばしてみました。姫路は由緒ある街で、播磨の中心都市ですが、現代では神戸・岡山の両都市に挟まれて余り目立つ都市ではありません。実際に訪問してみますとこれが予想以上に堂々たる大都会なので驚いてしまいました。人口も50万人に迫るもので、堂々たる地方中核都市、岡山と同程度かそれ以上の街で驚いてしまいました。そして一際目立つのが有名な白鷺城、市の風格を一段と雅なものにしていました。播磨だけで面積、経済力共県として独立するに十分な印象がありますが、何故明治の初年、姫路県を兵庫県に加えたのでしょうね。
202・神戸
そして神戸・・ここを訪問した目的は実は中華街でした。仕事場は賄い付で食事は3食とも地元のおばさんが作ってくれるのですが、これが正直苦手でした。味噌田楽等の田舎料理が毎日続くと少々辛くなり、買出しに出掛けたのでした。神戸に行きますと横浜同様大きな中華街があり、ここで食事をして、ほっとした思い出があります。ここで好みの缶詰等大量に買い込み持って帰り、ほっと一息ついた記憶があります。今でも和食より中華というのは変わっておりませんね。ただ地方出身の方が多い為か食事に困っている事は同僚達には余り理解してもらえないようで、むしろ風変わりな奴と見られていたようです。神戸の街に始めて行った際に何も知らないので最初は神戸駅に降りました。駅前はガランとして繁華街も無く、ぽつんと三越デパートがあるだけで、「ここが本当に神戸?」と驚いた記憶があります。
203・京都
就職して一年目に岡山から転勤となり、京都に住む機会がありました。それまで数回旅行で京阪神を訪問した事はありましたが、それまでのは、あくまで観光旅行、関西に住むのは非常に嬉しくまた色々と考えさせられました。京都は外部の人にとっては観光都市であり、古都、歴史の街ですがそこには百万人以上が住んでおり、現代の大都会でもあるわけで、この点を理解するには良かったと思います。仕事は宅地の大規模造成で事務所は沓掛という場所にあり、国道9号線沿いにありました。この国道は京都から亀岡を山陰を経て下関までの長い国道です。近くの地名には沓掛の他、大枝など歌に詠まれた地名があり、「さすが京都」と感慨にふけっていました。そして亀岡から本能寺を急襲した明智軍もこの辺りを通過したことでしょう。もっと長い勤務になると思ったのと一緒に見物するような友人、特にスカートをはいた友人が居なかった事、そして仕事が忙しくほとんど京都見物が出来なかった(しなかった)事が残念です。それでも休日に四条河原町や京極辺りを散歩出来たのは良い思い出です。ほんの数ヶ月で京都を後にしました。
204・大阪
大阪は一度は住んでみたい街でした。特に東京と差があると感じたのはミナミ地区、通天閣付近、縁台で将棋をしている人も多く、商店街も全然違う雰囲気で、どことなくぬくもりがあり、すっかり気に入ってしまいました。そして外食をしますと確かに何を食べても美味しかったですね。特に丼ものはすばらしかった。食い倒れというのは本当であると実感しました。ただ、昔テレビで見た丁稚達が活躍した「船場」に行ったのですが、普通の静かな問屋街で少々がっかりした記憶があります。
205・阪急沿線
寮が阪急線沿いにあり、阪急電車に乗って通勤しましたが、通勤の感覚、電車の雰囲気全てが違うのには少々戸惑いました。阪急は梅田から十三までは3つの路線が平行して走り、そこで3方向に分かれるのですが、この十三はその先の阪急の沿線とは全く異なる街なのには少々驚きました。京都線で淡路まで行き、乗り換えた記憶があります。阪神間にはかなり接近して阪神、JR、阪急が併走していますが、路線の雰囲気が全く違うのには驚きました。個人的な好みとしては阪神が好きですね。
206・関西のプロ野球
関西に居る時に仕事が早く終わる日にはプロ野球を見に行くようにしました。お目当てはパリーグの試合、東京ではテレビではまず見る事が出来ない試合が見られるのが楽しみでした。特に印象的であったは当時の近鉄の試合でした。現在は綺麗な大阪ドームで試合をしていますが、当時は主に藤井寺が使われ、時々市内の日生球場を使っていました。この日生球場で野球を見るというのが長年の希望で、実際にここで野球を見る事が出来、嬉しかったのをよく覚えています。球場はお世辞にも綺麗とは言えず、狭く、特にファールグラウンドが小さいのです。ここで本当にプロ野球が行われるのかと驚いた程です。当日のカードは近鉄-日本ハムで観客は非常に少なく、東京で見ていたプロ野球とは全く別のものでした。大阪弁の野次もきつく、すぐ近くでプレーを見る事が出来、大満足でした。そして西宮球場、当時の阪急ブレーブスの本拠地ですが、スタジアム全体に品があり、綺麗な感じで好感が持てました。特に内野席には小さな机が付いており、飲み物を楽しめながら観戦出来るようになっていました。最近元気の無いパリーグですが、セリーグに負けないよう頑張って欲しいものですね。
207・甲子園
せっかく関西に居るので夏の高校野球、甲子園観戦に出掛けました。実際に行ってみて感じたのは思っていたよりも小さいという事です。テレビではとてつも無く大きく見えたのですが、ずっと小さい、こじんまりとしているという印象を持ちました。テレビで見た場所に行って、一番想像と違ったのはここかも知れません、それでも広陵高校と天理高校の試合であったと思いますが、応援合戦は見事なものでした。それでも意外な事はほとんど無く、スタンドの遠くから見ていますので選手の表情も分からず、野球を見ているだけではプロ野球と比較しますと内容もやはり格段に違い、余り面白くは無かったですね、高校野球はテレビで観戦する方が緊張が伝わって来て面白いかも知れませんね。
208・積算の手伝い
大阪支店から東京に呼び戻され、外国に派遣するまでしばらくの間、本社で積算のお手伝いをしていました。当時は外国での工事の入札が多く、プロジェクト毎に特別にチームを作り積算していました。その後はかなりの部分がコンピュータ化されて省力化が進みましたが、この頃はその過渡期で、まだまだ経験・勘・度胸での積算でした。経験が無く直接積算を行う事はありませんでしたが、書類の整理、連絡、コピーなどやる事は多く、仕様書は英語の場合が多く、その解釈の手伝い等をしていました。バブルな時代で日本そしてゼネコンにも「それ行けどんどん」の雰囲気があり、危うさもそろそろ感じていましたが、しかしながら取り敢えずは前に進める良い時代でありました。
209・パナマ赴任
会社に勤め始めてから一年経過し、駐在員としてパナマ共和国に赴任しました。毎年、希望赴任先にはブラジルと記載していたのですが、人事から「パナマでも良いか?」と打診があり、会社勤めに否も無く二つ返事で行く事にしました。ブラジルではありませんが、中南米で働ける、と喜んだ記憶があります。赴任に当たっては先輩社員3名と一緒でしたが、先輩達はどちらかと言いますと赴任は本意ではないようで不機嫌な様子、喜びを抑えながらの旅行となりました。途中ニューヨークに1泊し、マイアミ空港に立ち寄りそこからはブラニフという会社の飛行機に乗ってパナマに向かいました。機体の色彩は非常に変わっており極彩色になっており、グロテスクな印象さえありました。
210・パナマ駐在
約1年半滞在しました。ここでの体験は非常に貴重なものでした。まずここで初めてスペイン語と出会いました。そして、ご存知の通り南北アメリカの中間地点にあるこの国はパナマ地峡と呼ばれ運河があります。仕事は大西洋側のコロン市でしたが、当初は太平洋側のパナマ市から通っていました。両市は70キロ位離れているのですが、一応毎日アメリカ大陸横断をしていた事になります。カリブ海側と太平洋側とでは景色が非常に違うのには驚きました。それまで小さな国には住んだ事が無かっただけに見るもの聞くこと全てが新鮮でした。
211・パナマに関して
当時は米国の影響は非常に強く、運河は米国の管理化にあり国土が中央で分断された状態にあり、自国の通貨は無く、米ドルがそのまま使用されていました。赴任するまで知らなかったのですが、パナマは元々はコロンビアの一部で運河の権益を取得する為に米国が後押しして出来た国なのです、日本では中米に分類するのが一般的なのでしょうが、グアテマラからコスタリカまではメキシコ副王領から独立し、同じ国であった事もあり、「中米」として分類されますが、パナマは歴史的にもメキシコ圏では無く、コロンビア圏、その意味では南米に分類されるべきなのでしょう。また、この程度の国で自国通貨を持たないというのはちょっとした驚きでした。ただし、正式には国の通貨はバルボアという事になっており、バルボアはドルと等価とされていました。札は発行されておらず、そのままドル紙幣を流用している建前のようで、場合によってはドルとは呼ばず、「バルボア」と称していました。コインは米国のコインと形も大きさも全く同じものを独自に作っており、米国のものと混在して使用していました。帰国後、米国に行った際に余ったパナマコインを米国の自動販売機で使用してみましたが全く問題無く使えました。
212・パナマの気候
実際に住んでみての感想は、9ヶ月の我慢と3ヶ月の極楽というものでした。この地は元々はコロンビアの辺境の地、湿地帯で、湿度が非常に高く居住には余り適していないのです。実際にパナマ市からコロンビア方向に向かうと道路は途中で湿地帯に阻まれ、国境まで行ける道は在りませんでした。よくアルゼンチンからカナダまで南北アメリカ大陸を陸路で行けるか?と質問されますが、道路はここで切れています。たまたまこの地が地峡であり、それが非常に重要、特に東西に海を有するアメリカ合州国(何故日本は合衆国と教えるのでしょうね?)に取り非常に重要であったのです。年間、9ヶ月間は雨が多く、とにかく気温と湿度が高い、油断していると何にでもカビが生えるという感じです。午後にはほとんど毎日のようにスコールが来ました。昼休みが2時間ありましたが、毎日宿舎に戻り、シャワーを浴びていました、とにかく体中がベトベトするのです。ただし、12月末から3ヶ月間は乾季でこれは気持ちの毎日でした。美しい景色のすばらしい国だと再認識しました。もしまた訪問する機会があるならばこの時期に行きたいですね。
213・運河
実際に見た運河は興味深いものでした。ガツン湖という内陸にあるごく普通の小さな湖まで船を持ち上げて、また下げるという方法を取っていました。内陸の小さな湖に大きな船が並んでいる光景というのはなかなかのものでした。太平洋側は3段の水門の内一つが離れていましたが、大西洋側は3段同じ場所(ガツン水門)にあり、一気に上り下りします。これも壮観でした。一つ意外であったのは方向です。太平洋側から大西洋側に抜ける場合、ほぼ北西に向かうのです。西から東に向かうものとばかり思っていましたがこれは意外でした、パナマ地峡が捻じ曲がっているのでこのようになるのです。(是非一度地図で確認して下さい)水門を造り船を上げ下げする方法は雨が多いパナマだから出来る方法のようです。
214・カジノ
国は観光に力を入れており、カジノが至る場所にありました。仕事帰りにちょっとブラック・ジャック(21)という感じです。このブラック・ジャック、客側がチーム力を発揮すると勝てる事が多く、特に客側のしんがりに強い人が居るとかなりの確率で勝つ事が出来ます。ルールはパラグアイよりもかなり客側に有利であったように記憶しております。勿論、ルーレット、ポーカー、サイコロ賭博もありました。ドルがそのまま通用する事もあり、また米国から近い事もあり、運河観光を目的として多くの米国人が来ていました。旅行が好きで世界中を駆け巡る日本人の姿はビジネスマン以外は余り見掛けませんでした。ツアーに組み込まれているケースも少ないようですね。ただ地元の人はそれほどは来ていない様子でした。お金の余裕が無いという事もあるのでしょが、当たり前にあるのでそれほど関心が無いというのが本音ではないでしょうか?最近東京都などでカジノ解禁論が盛んで、これに対して反対論者は家庭破壊などに繋がりかねないと懸念していますが、外国からの旅行者が落とすお金を考えると個人的には実施した方が良いと思っています。
215・マクドナルド
最初の数ヶ月はパナマ市に勤務していました。皆でホテル住まいでした。事務所は街の中心部のビルの中に在り、一階はマクドナルドになっていました。毎日、夜遅くまで仕事をしており、夜食は毎日マクドナルドという感じでした。一番若い当方がメンバーの希望を聞き買いに行っていました。飲み物は数種類から選べるのですが、中に「ルートビール」というのがありました。見た目はコーラなのですが、味は全く違い、これが非常に気に入ってしまいました。ただ他のメンバーにとっては「薬臭い」らしく皆一口飲んで顔をしかめていました。どうも他の皆さんと味覚が違うようで、「田中のうまい:というのは気をつけろ」、と言われる始末でした。
216・中国人街
パナマ市にも他の中南米の都市と同様に多くの中国人が住んでいました。事務所やホテルから少し離れた中心部にその居住地区があり、日曜日の昼食時には必ず出掛けていました、お目当ては「飲茶」でした。香港等で食べる事が出来る本格的なものではありませんでしたが、点心が色々あり、それなりに美味しかった。特に鶏の手は上手に調理してあり、絶品でした。ある時他のメンバーも誘い一緒に食事に行ったのですが、皆さん、余り口に合わないようでした。特にこの鶏の手はそのままの形で出されていた驚いていました。それ以降、「田中のうまい:というのは危険だ」という事になってしまいました。この中華街、色々な店が揃っており、食事だけではなく、買い物もし、床屋も利用していました。パラグアイに飲茶が無いのは残念な限りです。
217・サンコーチョ
パナマの地元の料理でよく食べたのはサンコーチョという料理です。特異な料理では無く、とうもろこしと芋が入っている鶏のシチューです。事務所の向かいにこれが美味しいという評判のレストランがあり、よく食べに行きました。非常に素朴な料理で、材料をそのままの形で煮込んだ「ごった煮」という感じで、とうもろこしが半分くらいそのままの形で入っていました。最初は何だこれは!と余り気に入っていませんでしたが、僅か2ドルという手軽な値段にひかれて通う内にすっかり気に入っていまいました。今ではあのとうもろこしをもう一度食べてみたいと懐かしく想っています。
218・コロン市
コロン市は運河の大西洋側にある都市で、小さな半島になっており、港はクリストバルという名称です。クリストバル・コロンというのはコロンブスのスペイン語名で、コロンはコロンブスという意味です。独特の雰囲気がある半島にある街で、古い汚い建物が密集し異臭が漂っていました。特にひどかったのは市内の入り口付近、屠殺場があり、そこから血肉のかすなどが垂れ流しになっており、禿げ鷹が群がっていました。余りの環境のひどさに上司は驚き、そして考えてから「あのような街に住めるのは田中だけだ」とおだてられ、コロンに一人で住む事になりました。一見胡散臭い黒人が多く、雰囲気は不気味でしたが慣れるとそれなりに興味深い街でもありました。中から上の階層の方はスペイン語を使うのに対して、下層階級が英語を使うのです。聞けば彼らはバルバドス等元英領のカリブの島からやって来た連中でした。中国人も多く、またフリーゾーンがあり、多くの外国人も見掛けました。今思い出しても不思議な街です。地図を見るとこの辺りがカリブ海の一番奥に当たります。非常に穏やかな感じで同じ海でも太平洋側とはかなり違っていました。船と一緒に魚も移動して生態系を崩すのではないかと心配しますと、地元の方は途中にあるガツン湖が淡水湖でここを通過出来ないのでそのような心配は無いと話をしていました。上下しないフラットな第二運河が出来ますと生態系に大きな影響が出て来るのではないかと心配しております。
219・フリーゾーン
コロン市には自由貿易地域、フリーゾーンがありました。保税地区でこの中で商売する際には税金はかからないという事で中南米向けの色々な商品の集積地になっていました。当時は市内の一角、4ヘクタールくらいであったのですが、これを拡張する計画があり、そのプロジェクトを実施する為に赴任していたのです。法律的にも工法的にも数々の問題が起き、なかなか工事を始める事は出来ませんでした。当時勤めていた会社の真の狙いは第二パナマ運河で、この工事を弾みに工事を獲得しようと考えていたようです。
220・左ハンドル
コロンに一人で住むようになり、会社の自動車を運転することになりました。日産の小型トラックなのですが、勿論左ハンドルです。ハワイで一度だけ運転していますが、ほとんど経験が無いので初めての時には非常に緊張しました。普通に走っている時には大きな問題は無いのですが、左折すると反対車線に入ってしまう事もありました。今では左ハンドルに慣れてしまい訪日した時には右ハンドルは怖いので運転はしませんし、また出来ませんね。
221・魚釣りに行く
パナマは魚の多い国という意味ですが、2回ほど魚釣りに出かけました。2度共太平洋側で、一度は大きな船で狙いはマグロ、大きなカジキマグロを釣り上げましたが、余り釣りらしくはありませんでした。もう一度は鯵を狙いに小型船で繰り出したのですが、ものすごい入れ食い状態となり釣り竿に針が数本付いているのですが、餌を付けなくても投げ入れればたちまち数匹がかかるという状態でした。魚で船が一杯になり、これ以上釣ると危険という状態になり、釣りを止めました。本当にパナマは魚が多く居ると実感しましたね。
222・映画
パナマに居た時には映画をよく見に行きました。街の中心に住んでいたこともあり、周囲には沢山の映画館がありました。大体2,3ドルで映画館の中は非常に綺麗にしてあり、運河で働く米国人も多く、上映される映画の種類も多く楽しむ事が出来ました。暗い映画やサスペンスというのは余り好みでは無く、ファンタジー、ディズニー映画等も見に行きました。ただ話しているのは英語、字幕はスペイン語なので、複雑なストーリー性の高いものはさっぱり分からないので、ある程度内容が単純なものを選んでいたように思います。最近はヴィデオやDVDを見る事が多くなり、映画館に行く機会は減りましたが、あの独特の雰囲気は良いものですね。
223・バカモンテ漁港
勤務していた会社がパナマで最初に手掛けてのは太平洋側に在るバカモンテ漁港という港でした。パナマにはパナマ市に在るバルボア港、大西洋側のコロン市クリストバル港という立派な港湾がありますが、これは貨物用、外国からの船舶用で地元の人達のものではありません。パナマという国名の意味は「魚が多い」という意味だそうで、魚介類には恵まれているのですが、本格的な漁業らしいものは専用の港湾施設が無いので発達して来なかったようです。そこで政府は専用の港湾施設を建設、国際入札を行い、勤務していた会社が某大手商社と組んで落札したのです。ただ当時は勤務していた会社は本格的な港湾建設の経験が不足していたそうで、「りんかい建設」という港湾建設専業の会社とJVを組んで落札したそうです。当方が赴任した当時は建設が終了して数年が経過していましたが、一部で修理が必要となり、これを行う為に先輩社員と二人で現地に向かいました。想像していたよりは小さくコンパクトでしたが、綺麗な海にある港は美しいものでした。
224・リゾートホテル
パナマ市内から近い場所には余り綺麗な海岸は無かったのですが、そこから小型飛行機で30分程の場所に「真珠諸島」という場所があり、そこのリゾートホテルに行きました。太平洋、パナマ湾に浮かぶこの島はかつてはパナマ地峡を通過する前に南米から運んだ財宝を皆に分配していた場所であったという事です。訪問したのはその中の「コンタドーラ島」直訳しますと「勘定島」文字通り財宝の勘定をここでしたのでしょうね。以来現在に至るまで欧州にとり南米は金銀財宝を取って来る場所なのでしょうね。島はそれほど大きくはありませんが、非常に美しい海岸が続いていました。カリブ側とは違う何か開けた雄大な印象があります。また観光客はパナマ以外から中米諸国やコロンビア、ヴェネズエラからも観光客が来ていました。
225・ジャングル
仕事を始めるに当り国有地を借り受けたのですが、土地の中には不法居住者が居て、何故かそれに補償金を払う事になりました。地図で土地の範囲を見ますとさほど広い範囲では無いのですが、実際には国有地という事でほとんど手付かずのまま残っている、要するにジャングルなのです。こうして毎日ジャングルの中を歩く日々が始まりました。不法住居者達の多くはバナナを栽培しているのですが、ある程度古くなると収穫しておらず、同じバナナ園でも収穫量を予想してA,B,C等と等級を付けて行きました。山の中で多くのバナナ園は急な斜面に作られており、測量作業は大変でした。斜面なので平面換算して面積を割り出すのですが、余り学の無い農民達はその理屈が理解出来ず、説明するにも骨が折れました。中には荒っぽいのが居て空気銃をぶっ放すので、命懸けでした。
226・コロンビア訪問
パナマに駐在している間、2度隣国コロンビアを訪問しました。歴史的な関係も強く、パナマには多くのコロンビア人が住んでいました。パナマで見るコロンビア人は色が白い人が多く、スペイン語の発音が綺麗で、黒人が多いパナマ人とは少々違うという印象を持っていました。最初の訪問は仕事で首都のサンタフェ・デ・ボゴタだけでしたが、メキシコ市、リマ市と似た雰囲気、さすがに副王領が置かれていた街で風格がありました。非常に綺麗な街で、想像していたそれまでのネガティブな印象とは違いすっかり気に入ってしまいました。2度目は休暇を利用して首都だけでは無く、第二の都市であるメデジン、美人が多い事で有名なカリに行ってみました。バスで旅行したのですが、山岳地帯で登り降りが多くゲリラ活動が盛んになるのも納得しました。峠の休憩所で見ていますと壺に入った飲み物をカップに入れて売っています。現地の乗客たちが美味そうに飲んでいるので、試してみることにしました。コロンビアと言いますとコーヒーの世界的な産地なのでミルクコーヒーを想像していたのですが、実際はココアでした。レストラン等で見ていてもココアを飲んでいる人が多く、ちょっとした驚きではありました。実際に旅行してみた印象はさすがに多少不気味な感じはありますが、メデジン等は非常に綺麗で落ち着きがある街で、イメージは一新しました。特に見事であったのはシパキラという塩山後に作られた地下の教会でその壮大さ、荘厳さには驚きました。コロンビアには機会があったらまた是非訪問してみたいものです。
227・コスタリカ国境へ
パナマ市からコスタリカ国境まで出掛けた事があります。パナマの内陸部の様子を見たかったのとコスタリカとの国境を見たかったからです。バスで国境近くのダビという街まで行き、そこでバスに乗り換えて待望の国境まで行きました。日本から派遣されている駐在員という身分でしたので、国境を越える事は出来ませんでした。パナマとコスタリカは丁度ペドロファンとポンタポラ(パラグアイ・ブラジル)のような感じで一本の道を挟んで国境となっていました。それほど大きな通りでは無く、片側一車線の道であったように記憶しています。向こうは勿論コスタリカ、パナマで黒人ばかりを見ていたので働いている人の多くが白人であったのが驚きでした。残念ながらその後もコスタリカに行く機会は無く、何時かは中米の華と言われるこの国を訪問したいものです。
228・トリーホス将軍
当時のパナマの最高指導者は軍人のトリーホス将軍でした。当時のパナマというのは軍が実質的に支配している国で、大統領は居ましたが、単なる飾りに過ぎませんでした。軍の最高司令官のトリーホス将軍は国民に絶大な人気があり、国は安定していました。特に国民が狂喜したのはパナマ運河の世紀末返還で、米国の管理下になっていた運河地帯をパナマに渡す事になり、これを当時の米国大統領であるカーター大統領と締結されたので「トリーホス・カーター条約」と呼ばれていました。人気があるもう一つの大きな理由は、機嫌が良いと時々突然「明日は祝日」という政令を出すのです。突然「明日は休み」になるのですから大多数の国民は大喜びです。休みの日に事務所で仕事をすると罰せられる可能性があるので、そのような時には我々は釣竿を持って、それにふさわしい格好をして会社に目立たないように出勤していました、これを大真面目にやっている上司の姿が今でも目に浮かびます。そして滞在中最大のニュースが飛び込んで来ました、絶対的な権力を持つトリーホス将軍が飛行機事故で亡くなったというのです。事故とされていますが、暗殺ではないのかという疑いは今でも残っているように感じます。帰任した後になりますが、その後パナマでは後継者としてノリエガ将軍が権力を掌握しましたが、トリーホス将軍の清清しい雰囲気とは正反対のガマ蛙のようなキャラクター、日本に来てまず所望するのは「ユンケル皇帝液」という御仁でした。麻薬の密輸等の疑惑を指摘されますと米国に反旗を翻し居直り、パナマは攻撃される事態になりました。
229・リマへ
パナマからの帰国が決まり、少々時間をもらいペルーのリマに旅行に出掛けました。帰国してから南米に行けるのは何時になるのか分からない、行ける時に少々無理をしても行こうと考えていました。リマはその後2回訪問していますが、不思議な魅力を有する街であると思っています。最初訪問した時もパナマとは余りに違う様子に驚いた記憶があります。時間も限られていましたので、観光地等には行かずに街を歩いて見物したのですが、リャマが他の場所の馬のように普通に居るのが印象的でした。そして丁度この時にサッカー・ワールドカップの決勝戦(西ドイツ-イタリア)が行われていました。とある食堂に入り観戦しましたが、当方の予想は西ドイツでしたが、結果はイタリアの圧勝(3-1)、勝利と共に街中には国旗を振り喜ぶイタリア系住民で溢れていました。それまでワールドカップというものを余り意識していませんでしたが、その熱狂振りに驚くと共に関心を持つようになりました。
230・帰国
赴任が終わり横浜支店への転勤の辞令が出ました。帰国するルートはメキシコで東京行きのJALに乗るというものでした。接続の関係でメキシコに一泊する事が出来ました。メキシコでは有名なマリアッチ広場に出向き、本場の雰囲気を堪能する事が出来ました。その後はバーに出向き、マリアッチ好きの地元の方達としばかく歓談しておりました。楽しい反面、これでラテンの世界としばらくご無沙汰となると思うと寂しい気持ちもありました。
231・自動車を買う
パナマから帰国してその間に少し蓄えも出来たので自動車を購入する事にしました。色々な自動車を眺めた末、日産サニーという自動車を買いました。何故この自動車にしたのか理由は簡単で当時の事務所の隣が日産サニー販売であったからです。荷物を沢山載せる事が出来るバンに近い「カリフォルニア」というタイプを購入し、それ以降はそれに家財一式を満載して引越しをしていました。荷物はこれに載る以上は増やさないように努め、転勤も簡単になりました。
232・トンネル
パナマから戻り、最初に赴任したのが神奈川県相模原市橋本でした。橋本の五差路の地下に下水道本管を敷設する工事で、トンネルそれも山岳随道工法というものでした。都市部では普通はシールド工法が用いられるのですが、ここの岩盤は強く、十分な強度がある為にこの工法が採用されたのでした。都市の中の工事ですから、当然夜間に行う工事が多く、その場合には時間が限られていました。夜9時から朝6時までに制限されており、9時から工事を始める事が出来るように段取りし、時報と共に仕事をしていました。春から秋までは良いのでしょうが、この時は冬、深夜の作業は堪えましたね。昼休みと称する休みが午前零時から一時まであり、その時には熱いラーメンを食べていました。これは旨かった。主任は香港で地下鉄建設に携わっていた方で、軟弱な地盤での難工事の話を聞きました。トンネル内部の気圧を上げて(圧気)作業を行うという悪条件であったそうで、圧をかける時と下げる時には時間をかけて行うと話をされていました。トンネルというのは闇の中を進むもので、それこそ手探りの中での格闘、奥が深いようです。
233・シールド
同じ会社で近くの現場でシールド工事をやっているので見学に行きました。シールドというのは柔らかい地盤にトンネルを掘る方法で、例えますと、柔らかい羊羹に指輪を押し込み穴を掘るような感じです。この指輪がシールドに当たります。シールドを上下左右の4点で押して方向を決めて進む訳です。こちらの工事現場に行きますと技術屋は事務所の中で機械の数値を画面で確認し、カメラの映像を見ながら作業を進めていました。シールドの圧の掛け方をコントロール、要するに運転しているという訳です。施工に当たりほとんど現地に直接行かないで事務所で作業をしているのには驚きました。シールドのトンネルの特徴はほぼ円形になることです。東京の地下鉄等でトンネルが円形の駅がありますが、これらはこのシールドで作られたトンネルということになります。
234・コーラスを始める
それまでは山の中ばかりで市街地での工事は初めての経験で毎日が楽しかったのですが、地元の人との交流は全く無く、女性と話す機会も無い事が不満でした。そこで考えたのがコーラスです。混声合唱に入ればお金もかからず若い女性とも知り合いになれるという期待を持って合唱団に参加したのでした。しかしながら、その期待は見事に外れてしまいました。合唱団には、確かに多くの女性が居たのは居たのですが、ほとんどがママさん、そしてそれ以上の昔のお嬢さん達でした。それでも仕事と違う世界を持てた事は嬉しく、本社勤務になった後もブラジルに赴任するまでコーラスを続けていました本来はバスであったのですが、低い一定の音を出す事が多くちょっと単調な感じなので、少々無理をしてテノールに移りました。混声合唱では圧倒的に女性が多く、男性も大半はバス、練習の際に30人位集まってもテノールは一人か二人などと言う事がよくありました。自分が落ちてしまうとパートが無くなるので緊張の連続でした。年末恒例の第九の他にはフォーレのレクイエム、モーツアルトのレクイエム等をオーケストラの後ろで歌いました、勿論日本の歌曲や童謡にも挑戦しました。コーラスは本当に気持ちが良く、老若男女が集まり、大勢の人が一つの事を目指し協力し合う良い趣味であると思っています。
235・第九
日本だけなのでしょうが、第九は特別な存在であるようです。暮れになりますと日本全国第九だらけになり、当方も神奈川県各地(秦野、綾瀬、川崎、茅ヶ崎・・)を梯子して歩きました。男性は少ない上にテノールは更に少なく、どこの会場に応援に行っても「テノール」と言いますと喜んでいただきました。目安としては全体で400人居ればテノールは大体20人程度というのが普通でした。全体の20分の1しか居ないで結構目立つ旋律を歌うので、テノールの団結というのはなかなかのものでした。コーラスを始める前に第九を聴いている時にはほとんどソプラノの旋律が聴こえていましたが、現在はテノールばかりが耳に残ります。それにしてもすばらしい歌で歌い終わると気持ちが高ぶり、何故か非常に幸せな気持ちになります。このような曲を耳の不自由な状態で作曲したベートーベンという人は本当にすごい方であると思います。
236・千葉県に住む
横浜支店というのは神奈川県だけの管轄なのですが、施主の関係で県外の工事もたまにあり、次に行った場所は千葉県長生村という場所でした。千葉県に住むのは初めてですが、千葉市を越えた向こうというのはそれまで知っている千葉市から東京の間とは同じ県とは到底思えない場所でした。非常に田舎でここが東京の近くとは到底思えませんでした。仕事は電子機器の工場を建設する建築工事の付帯の土木工事、周囲に下水管を埋めて行くような工事でした。問題は既存の管がどこにあるのか調べる事でした。一歳下の相棒は非常に優秀な奴で何か良いアイデアを出すであろうと期待していましたが、彼の提案は「こっくりさん」、二本の針金を曲げて両手で付けて持って歩き、管が埋まっている場所になると自然に開くというものです。若い二人、さっそく試してみようという事になり実験してみました。当方がやると何も反応しませんでしたが、相棒がやるとあら不思議、ある場所に差し掛かるとこっくりさんが開くではありませんか。早速掘ってみると既存の下水管がありました。早速上司に報告して採用を願い出ると、「おまえら真面目にやれ」と一喝されてしまいました。
237・山梨県に住む
そして次に転勤となったのは山梨県上野原町でした。東京に割合と近くこの辺りの開発が進み、宅地造成の工事であったのですが、ここも住んでみますと山梨県と言うよりは実際には「甲州」でした。地方には時間を超越した歴史が現代にも色濃く残っている事を実感しました。言葉も雰囲気も山一つ越えた東京側とは全く異質、数百年の昔からあちら側とは別の世界として発展していた事を知りました。会話の中には「信玄公以来」という言葉が出、宴会の時に最後に歌うのは必ず「甲斐の山々、陽に映えて、われ出陣に、うれいなし・・」という出だしの武田節、他の地方ではほとんど歌われていませんが、ここでは誰でもが知っている愛唱歌でした。ここに忽然と東京に通う大きな団地が出来ていました。駅から見ると団地がある場所は距離的には駅から近いのですが、かなり高くなっており、交通手段は何とエスカレーター、かなり長いものが設置されていました。四方津ニュータウン、現在はこの場所には多くの山梨都民が暮らしているのでしょう。
238・渋谷に通う
その後間もなくして本社勤務となりました。本社は渋谷にあり、ようやく都会生活となりました。会社時代を通じて半分以上はここへ通う毎日なのですが、ほとんど渋谷を歩いた記憶はありません。会社員は誰でもそうなのかも知れませんが、実に渋谷の狭い範囲だけで行動していました。今地図を見ますと半径一キロくらいの中に色々な場所があるのですが、ほとんど行っていません。また休日でくつろぎたい時には仕事を思い出したくない為か出来るだけ渋谷を避け、新宿に出掛けていたように記憶しています。今でも渋谷に行きますと何となく緊張します。
239・通勤電車
渋谷に通勤するようになり、本格的に電車通勤するようになりました。電車が大好きな当方に取りましては決して苦痛なものではありませんでした。遠い駅まで25分歩き、毎日同じ時間に出る電車に乗り込み、毎日すし詰めとなっていました。また、満員電車の中では若い女性には近づけ無い事をこの時初めて知りました。わっと一斉に乗る時に若い女性の隣は大人気、まず横に行く事は出来ません。誰しも長い時間すし詰めになるのであれば、若い綺麗な女性の隣で過ごすのが良いに決まっています。最近は女性専用車両というのが登場していますが、当然のこととは思いますが、多くのサラリーマンのかすかな楽しみも奪うもののようにも思えます。帰りは終電もしくはそれに近い電車に乗り込む事が多くなりましたが、朝に劣らず非常に混んでいました。座る事などかなわないのですが、立ってつり革に掴まりながら寝ている人をよく見掛けました。ある程度混みますと寝てても立っている事が出来、片手でつり革を逆手で持ちしっかりと固定し、もう一つの手で二の腕を掴みその上に頭を乗せて寝ているのです。睡眠時間を削りながら仕事をしている人の知恵なのでしょう。 なるほどと感心し、その内に自分でも出来るようになって来ました。熟睡は出来ませんが、ウトウトくらいは出来るようになりました。
240・事務所
当時は情報化時代の幕開けで、まだインターネットはありませんでしたが、それに近い概念があり、NTTなどが色々な実験を行っていました。インデリジェント・ビル等と言う言葉が流行し、事務所にコンピュータが入り始めている時代でした。仕事のやり方がどんどんと変化して、それに戸惑いながら皆仕事をしていたように思います。まだパソコンという言葉が一般的では無く、オフコンとか端末機などというが主流で、非常に高価なもので、20人くらいのセクションに2、3台置かれているような感じでした。ただでさえ狭い場所に色々なOA機器が入り、置き場所に苦労していました。会社のキャッチフレーズが「スペースに挑む~建設」とあり、これを毎日オフィスで実践しておりました。それでもパソコンが入り表計算ソフトで仕事が出来るようになり、格段にノーリツがアップしました。
241・ブラジル担当
本社勤務で最初に担当したのが情報システム室、しばらくしますと国際事業本部ブラジル担当に配置換えになりました。当時勤務していたゼネコンでは香港、シンガポール、米国などの外国で多くの工事を行っていました。この中でブラジルだけは多角化が進行しており、建設の他、ホテル経営、採鉱(金)等の事業を行っていました。他の担当者は工事の進捗状況などを見ながら、主に工事現場の支援業務を行っていました。そのような中で当方は旅行会社周りとかホテルのレストランの備品調達等の業務を行っていたのです。周りからは一人だけ違う事をしている変な奴という目で見られていた事でしょう。ある時などはその後赴任する事になったリゾートホテルにある動物園向けに「カンガルーを持って来れないか検討しろ!」という業務命令が出て、一日カンガルーについて調べ電話を掛け捲っていました。「香港地下鉄第二工区の出来高は・・」とやっている横で「もしもし、上野動物園ですか、赤カンガルーを1匹手に入れたいのですか・・」等とやっていましたら、周りから「気が散るから、お願いだからカンガルーは他所でやってくれ」とクレームが出てしまいました。相当努力をしましたが、カンガルーをブラジルに持って行く作戦は見事失敗に終わりました。
242・カレー
昼飯によく通ったのはボルツというカレー店で、インド風のカレーのお店でした。家庭で食べる味とは全く違い気に入ってよく行きました。会社でも同じようにこの店のファンが居て、よく行ったのは辛さ競争、メニューに辛さを「~倍」と注文出来るとあり、「5倍」「20倍」というように注文します。倍率が高くなりますと「インド人もびっくり」とか「タバスコより辛い」などと恐ろしい表示がありました。これに挑戦して平然と平らげるというのが流行したのです。辛いのには強いという自信がありましたが、仲間の激辛には到底付いて行けませんでした。
243・へぼ将棋
昼の休み時間は僅かに1時間、どこのお店も人が集中し非常に混雑していますので、外食は面倒な時は仕出弁当を頼んでいました。大体10分くらいで終わらせて、同僚とへぼ将棋を楽しむ事もありました。将棋に関しては駒の動かし方を知っているという程度で非常に弱いのですが、その同僚も同程度、へぼ同士の対戦です。時間が無いので全部ノータイム、考えていけない、直感のみで指すというものでした。難しい陣形等を作ろうとすると直ぐに攻め込まれてしまいますので、簡単な4間振り飛車・みの囲いで戦うようにしていました。名前は大仰ですが、要するに飛車を振り王を3つ動かし、銀を一つ上げるだけ、これで飛車先を突いて攻めるというものです。勝負は何時もあっという間につき、短い休憩時間で3番くらいやっていました。
244・台湾に出張
所用があり、台湾に出張に行きました。当時当方が勤務していた会社では台湾最南端でホテル事業をしており、そこへ出掛ける旅でした。普通の旅行と言いますと食べるのが楽しみなのですが、この時は仕事であり、ホテルにずっと滞在する事になっており、余り期待せずに行きました。出掛ける際には何故か余り美味しい物は口に出来ないような気持ちになっていましたが、実際に行きますと毎食中国料理、それも五星の最高級ホテルで、かなりのレベルのものをいただく事が出来、感激した覚えがあります。このホテルは台湾の最南端に位置しており、外国人よりも台湾に住んでいる方を対象にしているようで、中国人向けの味付けでかつ材料も海に近く新鮮なものを利用し、料理人のレベルも非常に高かったのです。
245・ブラジルへの辞令
横浜支店そして本社勤務等で日本で数年過ごした後、今度は待望のブラジル駐在員の辞令を受け、赴任することになりました。子供の頃からの希望が実現して非常に嬉しかった記憶があります。結局ブラジルに2年滞在した後はパラグアイに引っ越して来ましたのでこれ以来現在に至るまで南米にずっと住んでいます。会社から辞令をもらい数日間で急いで支度をして出掛けた記憶があります。ほとんど身の回りの手荷物だけで出発しました。自動車(愛車・サニー)は高校時代の友人に譲って行きました。数年後、訪日した時に久しぶりにこの自動車を運転させていただきましたが、ちょっとぶつけてしまいました。友人は少々渋い顔をしていましたが、元々はこちらがあげたもので文句も言えず、返って悪い事をしてしまいました。以降この事に懲りて日本では運転は全くしておりません。
246・ゴルフ道具
行き先はリゾートホテルの管理人という事でゴルフ場が付いており、出発の前に新宿にあるシントミ・ゴルフを訪れてゴルフ道具を購入したのですが、クラブを選択する際、店員に「今までの経験は?これからどのくらいの頻度でゴルフをしますか?」という質問に「全く経験はありません。そして今後は多分、毎日する事になるでしょう。」と答えて相手を驚かせました。事情を話すとゴルフの大好きな店員に非常に羨ましがられ、「僕が代わりに行きたいですね」との事でした。初心者用の全部揃っているセットを購入し持って行きました。しかしながら生来、運動神経が無いせいか余り上達せずに終わりました。
247・ブラジルへ向け出発
荷物も多く家から空港までどのように行くか検討し、考えたのが「赤帽」です。荷物を運ぶサービスなのですが、一人だけは荷物に付いて行けるという事でこれで出発しました。家に来た赤帽の小型トラックに乗り込み両親に挨拶して出発しました。この時以来、日本に居住した事が無いのでこの時の事は今でも強く印象に残っています。途中で会社に立ち寄り、ここでまた沢山の託送荷物を受け取り、一緒に赴任する同僚と二人、本社でお世話になった皆さんにご挨拶をし、そして成田でバリグのジャンボジェットに乗り込みました。「日本脱出、憧れの南米へ」将来への夢と希望で一杯でした。
248・ブラジルに着任
東京で飛行機に乗ってから一日かかり飛行機はリオに到着しました。ここでリオ勤務となる同僚が降りて行き、リオ・サンパウロ間は1時間くらい、窓の外はブラジルの景色、ずっと見とれていました。空港に到着しますと、税関には信号があり、青だとそのまま通過、赤ですと荷物を検査する仕組みになっていました。自分の大量の荷物に加え会社からの託送荷物があり、当然の事ながら赤信号、荷物を見せ、説明し、通関するのに一苦労でした。そしてサンパウロの街を走り、勤務している会社のホテルへ・・、ブラジルでの生活が始まりました。2日間サンパウロに滞在し、前任者に連れられて任地のリゾートホテルに向かいました。
249・エスピリト・サント
勤務先のリゾート・ホテルはリオの一つ北の州であるエスピリト・サントに在りました。ブラジル国内でも特にサンパウロ辺りではこの州はバイア等と同じ東北部に位置すると思っている人が多かったのですが、東南部(サンパウロ、リオ、ミナス、エスピリト・サント)に在り、比較的サンパウロかも近い場所にあります。他の州と比較しますと面積は非常に小さく、地味な州ですが、風光明媚、また州旗には国旗と同様に文字が書かれていて「労働と信頼」と書かれていました。ブラジルというのは旗に実現出来ていない理想を書き込むようです。(ちなみに国旗には「進歩と秩序」と書かれています。)この辺りは海岸山脈が一番海岸に近づいており、国内最高峰であるピコ・デ・バンデラもこの州とミナスとの州境に位置しており、山も海も美しい。今まで世界中を色々な場所を訪問しましたが、山も海も両方ともすばらしいという点ではこのエスピリト・サントが一番であると思います。海岸はトロピカルな雰囲気で保養地、別荘地があり、特にガラパリはブラジル国内では非常に有名な海岸です。ここでの名物はランゴスタ、伊勢海老です。これはさすがに少々値が張りますが、マヨネーズをベースにしたソースでいただきましたが、確かに美味しいものです。
250・州都ヴィトリア
エスピリト・サント州の州都はヴィトリア、海に面している都市で、港町でもあります。泳げる海岸もありますが、工業都市でもあり、世界的な規模を誇るツバロン製鉄の工場、有名なガロタ・チョコレートの工場があり、活気がありました。ガロタはブラジル国内はもとより、当地でも人気のチョコレートで、今でも買うのはこのガロタです。(南米からのお土産にはお勧めです)日本で売られているガイドブックには余り紹介されていない為もあり、日本からの観光客は余り多くはありません。
251・勤務先のホテル
仕事はリゾートホテルの管理で、支配人として2年間勤務しました。勤務先のリゾートホテル(ポルトガル語)はこの州都ヴィトリアから自動車で90分、ミナス・ジェライス州へ向かう幹線道路を山を登って行くと在ります。海抜はゆうに1000メートルはある常春の高原にあり、クーラーは一年中不要、時には暖房も必要なほどで、快適そのものでした。付近には療養所があり、ブラジル各地から病気療養の為に住んでいる方が多く居ました。また蝶と蘭の里としても有名で珍しい蝶、そして蘭の原種が多く存在するという話です。景色はすばらしく、国立公園に指定されていないのが不思議なほどでした。ホテルは山小屋風の建物が幾つがあるという感じのもので、ブラジルではこのような形態のホテルをファゼンダ・ホテルと呼んでいます。多くの客はヴィトリアから、時にはサンパウロ等の遠方からもやって来ていました。日系のホテルという事、またゴルフ場が付いているという事で夏休み・年末年始等長期の休みになりますと、サンパウロ辺りの駐在員の方も家族連れで多くやって来ていました。観光ホテルですから人の休みの時が一番忙しく、年末年始からカーニバル終了までの夏のバカンスシーズンはほとんど一杯でした。そしてこのようなホテルが難しいのはシーズンオフをどうするかで、光熱費等の維持費、社員の給与などの固定費はかかりますが、ほとんど客は来ない、ヴィトリアからの社員研修、系列ホテル社員の有給休暇利用など知恵を絞って客集めを行っていました。一番のお得意はチョコレート会社のガロタ、当然ホテルで売るお菓子は全てガロタ社から仕入れていました。
252・農業部門
場内には「コーヒー園」「野菜(日本野菜)」「キーウィ」「にじます養殖」など色々な事をやっていました。実際には単体で採算が取れるものはほとんど無く、主目的は観光用でした。週日は一日農業部門を廻るのが日課になっていました。野菜は高原で何でも育ち、日本の大根の種を色々と撒いたのですが何でも育ちました。にじますは数年前に養殖に成功しており、幾らでも増やせる体制になっていましたが、餌代がかさむというのがネックでした。この他、前任者は色々なことに挑戦したようで、失敗したしいたけ場からはまだある程度はしいたけが取れましたし、ぜんまいなどもあり、食べ物は新鮮で豊富でした。また別荘の販売も行っていて、仕事の内容は実に多様でした。ただ、仕事で困ったのはパソコンが無かった事です。当時ブラジルは国内産業保護の為に外国からのパソコンは輸入されておらず、旧式のパソコンしかなく、高くて性能が良くなく、勿論日本語を使う事は出来ず、とても使う気にはなれませんでした。それまで東京の事務所ではパソコンを使用して仕事をする慣れてしまっており、パソコン無しに戻るのは非常に大変でした。何か集計するにも手計算、レポートも手書き、本当に困りました。一度便利な物に慣れてしまいますと、なかなか元に戻れないものですね。
253・奇岩・「青い岩」
また、近くには「青い岩」と呼ばれる奇岩があり、この奇岩の景観は一見の価値があります、と言いますのは、まさしく「とかげが岩によじ登っている」ように見えるのです。他にも至る所に奇岩があるのですが、地質の専門の方に伺うとこの辺りの地層はかなり古いものなのだそうです。景色はすばらくし、空気も綺麗、まさに天国のような場所ですね。
(写真:奇岩・青い岩)
254・ロベルト
さて、名前なのですが、ブラジルにはYの文字がありません、従いまして「YUICHI」と書いても誰もどういう風に読むのか分からないようなのです。どうしたものかと考えていますと、一人のブラジル人が「ブラジル風の名前を付けて使ったら良い」とアドバイスするのです。なるほどこれは良い意見と早速名前を付ける事にしました。色々と考えたのですが、(1)分かりやすい(2)覚えやすい(3)他の言語でも同じ名前がある、という条件で考えました。英語やフランス語、スペイン語でもある名前が良いと考えたのが「ロベルト」です。ブラジルには実際には「ホベルト」という発音になります。(英語ではロバートですね)以来この名前を現在に至るまで使用しておりおります。
255・近くの村
一番近くの村はバルジェン・アルタという名前の村で自動車で10分ほどでした。従業員の多くがここから通って来ており、事務とホテルで要になっていた若い兄弟、パウロとジョルジもここから来ていました。非常に田舎でのんびりとしており、外の世界からは隔絶された桃源郷のような場所でした。パウロとジョルジの家に遊びに行きますと皆さん暖かく迎えてくれ、生活に必要なものは自給自足が基本のようで酒も自分達で作り、仲間とのんびりと暮らしていました。東京の渋谷とは余りにも違う世界に来て考えさせられる事ばかりでした。
256・レストラン
お客様がブラジル人ばかりの時には現地のコックの料理だけで全く問題は無く、とにかく肉を焼いて卵焼きを乗せて出せば満足してくれ、楽だったのですが、日本人が多い時には日本人向けの料理を工夫していました。日本から料理の本を送ってもらい、豚と大根の煮付け等を自分で調理し、現地のコックに説明すると、さすがにプロですね、一回で覚えてしまい、結構日本料理を作っていました。味付けに色々と注文を付け、それなりに美味しく出来る様になり、日本人のお客様から「日本人のコック?」と聞かれるまでに腕を上げて行きました。日曜日など客が多く来る時にはバイキングにし、色々な料理を並べなくてはならず、カレーや和食も並べると結構普通のブラジル人も興味を示して食べていました。日銭商売のレストラン、工夫次第で直ぐに結果が出るある意味では面白い、また怖い仕事でもあります。
257・動物園
リゾートホテルの中にはホテルを訪問したお客様に楽しく過ごしていただくようにゴルフの他にも幾つかのアトラクションを用意していました。プールやテニスコートは勿論、魚釣り、滝が多い自然道など、その中で一番の人気は動物園でした。動物園と言いましても「家畜園」と揶揄されており、家畜も多く居ましたが、それでも哺乳類が15種類は居たように記憶しています。その辺にいた猿を2種類、洗い熊、そして多くの野鳥・・ガチョウ、アヒル、豚、兎、山羊、羊、馬、牛などの家畜が沢山いました。ガチョウは近所から分けてもらって非常に貴重なものでしたが、職員の一人が孵化器をどこからか調達し一気に増え、分けていただいた方に逆にあげた記憶があります。楽しい素朴な動物園で特に子供たちには人気でした。
258・キーウィ
この農園にはキーウィがかなり植えられていました。キーウィは中国原産の果物で20世紀に入り、ニュージーランドで栽培の研究、品種改良が進み、現在では世界的に食べられているメジャーな果物になっています。当時はブラジルにはほとんど無く、非常に高い価格で取引されていたので、これに目を付けて栽培していました。それまで農業には全く縁が無かったのですが、キーウィの剪定、育て方についてはかなり勉強しました。当時、ある程度は果実は成っていましたが、少々冬の寒さが不足しているようで、最適地ではなかったようです。
259・サウナ
パラグアイと違ってブラジル人はサウナが大好き、ホテルにはサウナは必需品と言えます。ホテルを設計する際に「木が周囲にたくさんあるので、薪のサウナにしよう、コストダウンの図れる」という事でサウナは敢えて旧式の薪でのものでした。当時一般に利用されていたのは電気式で、セットすれば一定の温度に保てるものでしたが、薪ではそうは行きません。担当の者が火加減を見ながらの調整で大変でした。また施工が悪いのか、穴が開いているようで、修理しても修理しても煙が中に入って来るのです。お客様のクレームが多く悩みの種でした。それでもサウナに入り一汗かくと気持ちの良いものでした。
260・ゴルフ
ゴルフ場は9ホールでした。18ホールの計画はあったのですが、ゴルファーが非常に少なく、維持費だけでも大変で9ホールのままになっていました。山に囲まれたこの地域、街までは遠く、時間がある時には他にやる事も無いので球を打っていました。毎月ゴルフ・コンペがあるのですが、最初の時には36のハンディをもらい、優勝、優勝すると一気に減らすのですがその次の回も優勝しました。球を打つのも始めたの全くの初心者でしたが、3ヶ月くらいでアベレージが100くらいまで直ぐになりました。ただ、余り運動が得意で無いのと全て自己流でしたので、ここで頭打ちとなり、後は全く進歩しなかったですね。またコンペの時には前の日に自分でホールの位置を決めていましたので、外から来たお客さんと比べると有利であったと思います。このように余りにも恵まれた環境でお金も使わずにゴルフをしていたので、その後はとんど上達せず、道具もほこりを被ったままになっています。
261・週末
このような田舎での若い人達の楽しみはダンスでした。週末になりますと近隣50キロ位の中でどこかでダンスパーティーが行われていました。ダンスと言っても田舎ダンス、音楽も2拍子のものでした。それまでブラジル音楽と言いますとサンバ、ボサノバしか知りませんでしたが、それと比較しますと非常に牧歌的な音楽でした。それほど綺麗で無い会場に多くの若者が近隣から集まっていました。この辺りはイタリア系の移民、イタリアでも北部、スイスとの国境から来た人が多いそうで、金髪碧眼中にはドキッとするような美人も居ました。
262・ムケッカ
エスピリト・サントの海は豊かで魚が多く、蟹、海老を始めマグロ、ブリなどが多く水揚げされていました。時々ブリを買って刺身にして食べていましたが、余るくらいの量がありました。魚介類の現地の料理として有名なのがムケッカ、土鍋で煮込んだ料理で非常に美味しい。中は各種魚の他、シリと呼ばれる蟹、蛎などもありました。レストランのメニューで特に嬉しかったのは「たらこ」でした。注文すると焼いたたらこが出て来ます、これは実に美味しかった。パラグアイではムケッカを食べる事は出来ませんが、フォスに一軒この専門店があります。(テンペロ・ダ・バイヤ:当方のページで紹介)久しぶりにここでシリのムケッカを食べましたが美味かった。後この地方ではポルトガル風の鱈料理が有名で、干した鱈の料理なのですが、こちらは一回だけにしました。
263・製紙工場
エスビリト・サント州には国内でも有数の製紙工場があるというので見学に行きました。勤務先は州都ヴィトリアの南に在るのですがこの製紙工場は州北部の海岸地帯にあります。エスピリトサント州はブラジルの中では非常に小さい州で地図で見ると豆粒のようなのですが、実は九州よりも大きく、南北に細長い州を縦断すると結構遠かったのを覚えています。製紙工場まで後数十キロとなったところまで達すると道路の両側が全て同じ木、そして整然と並んでいました。二つの鏡を平行に並べて覗くと自分が遥かかなたまで並びますが、あのような感じです。ずっと向こうまで同じ木・・すさまじい景観です。製紙に使う木なのだそうで、確かユーカリの一種であったと思います。工場での説明に拠りますと広大な土地に計画的に植林、伐採が行われているとのことでした。余りの規模の大きさに驚いたと同時に日本ではもっと多くの紙を使用している訳で、一体どれほどの面積から採れる木を使用しているのだろうと、考え込んでしまいました。
264・星
このリゾートホテルは山の中に在い、空気も澄み切っていましたので晴れると非常に星が綺麗でした。今にも落ちて来るのでは思われるほど満天の星で、特に驚いたのは天の川です。天の川、要するに銀河は北半球よりこちら南半球の方がよく見えるとは聞いていましたが、これほどとは思いませんでした。初めて見た時には雲がかかっていると思ったほどです。残念ながら望遠鏡は無かったのですが、本当に星が落ちて来るという感じで、肉眼でもかなりの星を見る事出来、このホテルのお客様は夜になると皆、しばらく上を見上げていました。そして日本人の方が一番関心を持つ南十字星ですが、横に非常に立派なにせ十字星というのがあり、判別は難しいのですが、ここからですと実に見事に見えました。
265・QCサークル
当時会社は改善手法であるQC運動を展開しており、技術部門だけでは無く、管理部門をはじめ全社を挙げて取り組む事になりました。ブラジルの片田舎の我が職場にも通達は来て、最初は困惑してしまいました。このような環境の連中に日本的な改善運動をどうやって教えようと・・。ブラジル国内の職場は他にはリオ、サンパウロの近代的なホテルと建設、採鉱等の技術部門、知的レベルも高く、活動を説明、実施するのも難しい事はなさそうでした。その内に第一回QCサークル・ブラジル大会なる通達が来て、リオでブラジル国内予選を行い、優勝すれば何と日本で行われる全社大会に出場出来るとありました。リオやサンパウロにも行った事も無い連中、上手く行けば日本に行ける・・夢のような話に皆の目の色が変わりました。当方はそれまで日本でもQCサークルをやっていましたので、大体の事は説明出来ます。人参がぶら下がり、意欲に燃えた職員達に概念、基本的名手法を教え込み、手取り足とりでQC活動を行いました。日曜日・祝日に沢山のビジターが昼飯を食べに来るので、その対応の改善をテーマに何とか大会に間に合わせました。4人で自動車に乗り、一日掛けてリオまで走って行きました。リオに行くのも初めての田舎者、見る物、聞く物に驚いていました。結果は残念ながら優勝には届かず、それでも努力賞なるものをいただきました。しかしながら夢に期待を膨らませていた連中はかなり落胆した様子でした。
266・青年
ある時、サンパウロのホテルの責任者が勤務しているファゼンダ・ホテルにやって来た時に、「今度サンパウロで新たに開店するレストランにふさわしい若手は居ないか?」と尋ねられました。聞けばサンパウロの連中は辛抱が足りなく、要求ばかりなので、素朴で頑張りが利く田舎の青年が欲しい、ここならば家族も全員知っているので身元もしっかりしている、悪い事もしないであろう、と言うのです。従業員達はファゼンダの土地の中に家を持ち、住んでおり、多くの青年が居ました。この中で10代のしっかりした青年を紹介し、その青年は憧れのサンパウロに転勤して行きました。数年が経過し、会社も辞めパラグアイに移住した後、所用があり、サンパウロに行った際にそのレストランに行ってみました。実を言いますとすっかり彼の事を忘れていたのですが、彼はそこで働いていて、こちらを見るなり嬉しそうに近づいて来て、「セニョール、お陰でこのようにサンパウロで暮らせ、調理の勉強も出来た、ありがとう」と言われました。自分はすっかりと忘れていましたが、あの推薦で彼の人生を全く違うものにした・・何か不思議な気がしました。多分、今もサンパウロのどこかの和食レストランで腕をふるっている事でしょう。
267・空港にて
エスピリト・サントの山の中から時々はサンパウロの本社に出張しなければなりません。サンパウロから急ぐ時にはバスで、余裕がある時には飛行機を利用していました。逆ではないかと思われるでしょうが、バスは夜の7時にサンパウロを出ますと午前9時にはホテルから一時間ほどの地点まで来れます。あらかじめ迎えを用意してもらうよう連絡をしますと、午前10時にはホテルまで戻れます。飛行機ですと州都ビトリアまでの直行便は無く、リオかベロ・オリゾンテ経由となり、一日潰れてしまいます。大体半々の利用でした。ある時、サンパウロ空港で飛行機の時間を待っていますと、アジア系のおばさんが近寄って来て韓国語で「あなたは韓国人か?」と尋ねてるのです。知っている僅かな韓国語で「いいえ、私は日本人です。」と答えると、諦めるかと思っていたのですが、日本語で「日本人なら、ありがたい、実は私は日本人なのです。」と言うのです。聞けば日本人なのですが、韓国人と結婚し、韓国で苦労し、韓国を出ることしに、パラグアイのエステ市に移住することになり、息子達が何とか彼の地でやっているので、自分も来た、ところが、ここで予定していた飛行機に乗り損ねてしまった。というような事でした。今到着したばかりでスペイン語、ポルトガル語、英語も駄目で途方にくれていたというのです。それまでパラグアイに関しては余り知識は無く、パラグアイのエステ市に行くのにブラジルのフォス空港まで行くという説明で、バリグに掛け合い、直ぐに出る次の飛行機に乗れるようにしてもらいました。そのおばさんは嬉しそうに何度もお礼を言いながら搭乗口に向かって行きました。その後当方もパラグアイに移住して来ましたが、エステ市で韓国人に「韓国人と結婚した日本人のおばさんを知らないか」と何回か尋ねてみましたが、誰も心当たりは無いようでした。移住して間も無く何らかの事情でパラグアイを後にしたのかも知れませんね。
268・サンパウロに住む
一年半、山の中で生活した後、サンパウロに転勤となりました。東京育ちの為なのか、どうも田舎は苦手でこの転勤は非常に嬉しかったのを覚えています。何しろサンパウロは南米最大の大都会、日本人も多く、食材・書籍何でも手に入る・・これはと思い喜び勇んで引っ越しました。住居は中心部に在るアパートで他の駐在員との共同生活で、近くのパウリスタ通りに在る事務所まで徒歩で通いました。東京では考えられない事であると思います。自動車は持っていませんでしたが、時間があると地下鉄・バスなどを利用して市内のあちこちを訪問しました。なお、東洋人街・リベリダージには和食の店、カラオケの店が軒を連ねており、楽しいアフター5の生活を満喫しました。仕事も大変であったのですが、サンパウロ時代は充実した時であったように思います。ただまとまった時間を取ることが出来ず、州内の内陸部にはほとんど行く機会が無かったのは非常に残念でした。休日にはサッカー観戦にも行き、当時は余り有名で無かったサントスの三浦選手(カズ)が出場する試合を観戦に行った事もあります。当時、友人がカズと仲良くしており、「会いに行こうか?」と誘われたのですが、断ってしまった事を今も残念に思っています。
269・フェジョアーダ
ブラジルで気に入った料理は豆と豚の臓物を煮込んだフェジョアーダです。勤務先のホテルでは毎週水曜日がフェジョアーダの日でした。ホテルのレストランに入るとまず、入り口でピンガという強い地酒を小さいグラスにサービスしてくれます。これをくっと一気に飲んで気合を入れてレストラン内部に向かいます。一般的なフェジョアーダは色々な臓物が一緒に煮込まれているごった煮料理です。実はこの食べ物のルーツは奴隷の料理であったそうですが、ここでは高級料理に大変身して臓物別に別の容器に入れてありました。それぞれの壷の前には「舌」「耳」「胃」「ソーセージ」など書かれており、好みのを取る事が出来ました。サラダやデザートも充実しており、どうしても食べ過ぎ、また非常に重い食べ物で事務所に戻ると何時も睡魔が襲って来たのを記憶しています。ブラジルに行く機会がありましたら、一度は挑戦して欲しい食べ物ですね。
270・シュラスコ
サンパウロでよく食べたのはシュラスコ、要するに焼肉です。仲間とよく出掛けましたが、色々と情報を集め、評判の良いそして値段の安い店に行くようにしていました。肉を食べに行くには違いありませんが、値段、雰囲気、サービスならびにサラダ等の肉以外の食べ物等を比較して出掛けました、中には海苔巻等日本風の食材を置く店もありました。色々な肉を食べましたが、一番気に入っていたのはピッカーニャ、丸い肉を薄く切り、少々生のが美味しかった記憶があります。今でもピッカーニャが好物ですね。
271・イタリア料理
サンパウロには多くの日本食のレストランがあり、シュラスコなどの地元料理の店も多くありますが、一番気に入ったのはイタリア料理です。街の中心部にイタリア料理のお店が集まった地区がありますが、少し前のそう、50年くらい前のヨーロッパを思い起こさせるような店が多かった。ニューヨーク市の金融街の近くにリトル・イタリアという地区がありますが、こちらは少々近代的な印象を持ちました、個人的にはこのサンパウロの方が好きですね。パスタ、ピザも非常に美味しい、ピザも薄い生地をパリッと焼いたものでした。パラグアイにもイタリア料理がありますが、質・味に関してはサンパウロに遠く及ばないという感じです。
272・和食
サンパウロではほとんど毎日のように外食をしていましたが、一番多く食べたのは和食ですね。昼休み、仲間と外食・・駐在員仲間で出掛ける時には、ほとんどの日は無難に和食という事になります。サンパウロには多くの和食レストランがありますし、近くにある勤務先の会社が経営しているホテルには日系のホテルという事で高級和食レストランが付いていました。社員割引があるのと、そこは仲間内、寿司で並を注文しても「特並」が出て来ます。夜も仲間で食事となりますと、「居酒屋ごんべ」「きのした」・・という感じで和食になります。サンパウロには色々な店があり、焼き鳥店などもあり、こと「食」に関しては日本並みの和食がいただけました。日本で外食と言ってもそうは贅沢はしなかったのですが、サンパウロでは毎日美味しいものを食べていた記憶があります。今までで一番和食を食べたのもこのサンパウロ時代でしょうね。
273・ビリングス湖・チエテ川
サンパウロでの仕事の中で水処理システムを売り込もうという話がありました。勤務していた会社では当時、高分子凝集剤の開発に力を入れており、これをブラジルでも売ろうという訳です。早速サンパウロ市の水源を見学しに行く事になりました。サンパウロの水源は郊外に在るビリングス湖というところで、出掛けてみて驚いたのは湖畔に不法住宅が沢山建てられており、そこから流れ出る生活廃水、糞尿が全て無処理でここに流れ込んでいる事で、汚染の進み方に愕然としました。高分子凝集剤以前の問題が大きく横たわっており、ブラジルの貧富の差の問題の深刻さを改めて実感しました。そしてチエテ川、サンパウロ市を流れるこの川の汚染のひどさには驚きました。ヘドロが溜まりそれを浚渫しているのですが、完全に腐敗し、嫌気的になっており、ひどい状態でした。このチエテ川、延々と下り、パラナ川に注いでおりパラグアイに至っています。フォス市に川魚の美味しい店があるから行こうとよく誘われるのですが、あれを見てからどうしても行く気になれません。
274・相撲取り
大相撲サンパウロ興行というのがあり、当時日系人社会はこの話題に沸いていました。当方は仕事で観戦には行く事は出来ず、このイベントとは関係無く終わると考えていました。そして興行中のある夜、韓国式の焼肉店で食事をしていますと、何とお相撲さんが大勢来るではありませんか、丁度食事をしていたレストランが関取衆の夕食会場になったいたのです。小錦、千代の富士、寺尾等、関取の多くが歩いて来ました。見ていますと元横綱・琴桜の佐渡ヶ獄さんがコーディネイト役のようで、各関取、親方衆の座る場所を決め、店の人に食事を運ぶ段取りを指示していました。我々の丁度横には小錦が座りましたので、どのように食べるのか注目していましたが、我々が食べているものと比較しますと皿に盛られている肉の量は桁違い、器も超特大でした。さすが・・と感心して見ていました。寺尾は体が小さく、大きな関取の中ではごく普通の人に見えました、あれで小錦等と相撲を取るとはすごいものです。そして注目したのは貴乃花、当時はまだ貴花田というしこ名で幕の内に上がったばかりであったと思いますが、若武者という感じでした、何故かその時点では幕の内力士になっていないお兄さんの若花田もいました。とにかく食事もほどほどに関取衆の豪快な食べっぷりをしばらくの間、眺めていました。
275・リオ
最もブラジルらしい街、日本のテレビで一番登場するのはリオ(リオ・デ・ジャネイロ)であると思います。ここにも度々行きましたし、当地から旅行に出掛けました。ビジネス都市としての側面と世界的な観光地としての両方の顔を持つ魅力溢れる街です。リオは元々は首都であった・・事はよく知られていますが、実はブラジルの首都だけでは無く、ポルトガルの首都になったこともあるという歴史があります。ナポレオンに追われたポルトガル王朝はこの地に逃れ、ここを臨時の首都としたのです。その後国王親子は親は本国に戻り、子供はこの地に残りブラジル帝国の首都となった経緯があります。ブラジルが他の米州の国と違うのはこのような歴史があり、単に植民地という位置付けであった訳では無い事に要因があると思っています。この為にこのリオはブラジルの政治の中心として大いに発展し、ブラジリアに首都が移転するまで大いに栄えました。セントロ地区の威風堂々とした街並みはすばらしく、今でも多くの企業がここを拠点としています。そして海岸はコパカバーナを始め世界的に有名であり、実際に行きますとこの世のものとは思えない風景が続きます。大都市のリゾートというのは他に世界に例が無いように思います。治安さえ良かったらこのリオは今でも世界一の観光地であると思います。勤務していた会社ではこの都市で最高の5星ホテルを経営していたのですが、ホテル前に監視員を多数配備し、万全の体制で安全面に気を配っていました。値段は少々高目でしたが、サービスは好評で、休みの時には観光客、普段の日はビジネス客、一年中稼働率が100%に近い人気のホテルでした。
276・ベロ・オリゾンテ
何の目的であったのかは忘れてしまいましたが、ベロに出張しました。広大な土地に作り、「美しい地平線」という素敵な名前を持つ、ブラジル第三の都会でミナス・ジェライス州の中心、大都会を想像して出掛けましたが、意外な程こじんまりとした街でした。計画された都市で放射状に道路が延び、45度にまた道路がある・・という区画で普通の90度で交差する街と比較して返って複雑で、三角の土地が多く出来てしまうので合理的でも無いよう思いました。ミナス・ジェライス州は内陸に在る州で非常に広大で、自動車で廻りますとのどかな風景が延々と続いていました。有名な観光地ではなく、ブラジルの田舎を巡るとブラジルの良さが理解出来るような気がします。
277・ブラジリア
そして首都ブラジリア、行く前にブラジル人の友人から「一度は行くべき街、2度と行きたく無くなる街」と聞いていましたが、まさにその通りでした。「偉大なる失敗」と揶揄されてもいますが、確かに旅行してみますと大きな建物が並んでいて、隣の建物に行くにも自動車を持たないで移動するのが難しく、余り人間味が感じられませんでした。計画当時の人達の「未来の都市」を実現してみせたのでしょうが、現代からみますと無味乾燥、砂漠的という印象を持ちます。そして首都の周囲に幾つかの衛星都市があり、主に中層以下が住んでいる場所に行きますと道路区画等は無秩序になり、人間くささがある・・都市というのは生き物であり、合理性や機能性ばかりを追及してもうまくは行かないという良い事例であると思っています。
278・アマゾン
せっかくブラジルに居るので一度はアマゾン河を見たいと思い、河口の街ベレンに行きました。行くまでは東京でよくテレビに出るような「鰐が出て来る」というような事を少しは想像していましたが、やはり普通の大都市でした。アマゾンは河口付近では幾筋にも分かれているそうですが、それでもベレンから見る河は非常に大きかったですね。ベレンの街は美しく、街路樹がマンゴーの木なのが印象的でした。ベレンに赴任している駐在員に連れて行ってもらったのは蟹、とんかちを持ち、殻をコツコツ割って食べるレストランでした。余り美味しいとは思いませんでしたが、食べ方が面白く楽しく過ごす事が出来ました。
279・ブエノス・アイレス
ブラジル駐在時代、ある日上司からアルゼンチン出張を命じられました。目的は新規ホテル調査の仕事で数名でプロジェクトチームを組んで出掛けました。「ブエノス・アイレスに行ける」これは非常に嬉しい事でした。南米への想いの原点は何と言いましても小さい時に憧れたブエノスアイレスで、特別な思いを持って出掛けました。初めて見るブエノスアイレスは小さい時に見た絵本の通りで嬉しかったのですが、7月 9日通りとオベディスク・・しかしもうかなりの年月が経過しているはずなのに同じとは・・進歩していないという事でもある訳です。その後アルゼンチンには何回か出張し、また当地に移住してからも出掛けています。(ブエノスアイレスのページを参照して下さい)今でも大好きな街であることには変わりはありません。
280・ウルグアイ
サンパウロ駐在時代によく出張に行ったのがウルグアイです。モンテビデオの他、コロニア、プンタ・デル・エステにも行きました。アルゼンチン特にブエノス・アイレスに近く、これでどうして国として成立したのか不思議にも思いました。歴史を見ますとアルゼンチンとブラジルの緩衝国として、更にはラプラタ河を国際河川としたい英国の利権で出来た国という事が分かりました。パナマといい、このウルグアイといい、ラテン・アメリカ諸国が英米に翻弄されて来た歴史の確かな証拠でもあります。ウルグアイで美味しかったのはモルシージャ、血から作るソーセージですがこれを楽しみに出張したのを覚えています。当地にもモルシージャはありますが、ウルグアイで食べたものと比較しますと遠く及ばないように思います。
281・チリ・サンティアゴ
サンパウロ駐在時代に一度だけチリに出張しました。9月の春先、とても気持ちの良い季節でした。ホテル建設の可能性を調査するのが目的でしたが、途中に週末があり、仲間と「どこに行こう?」という相談をし、ブラジルしか知らない連中は「雪がたくさんある場所に行きたい」というので、スキー場があるアンデス山中、ポウティージョというスキー場に行くことにしました。確かサンティアゴから2時間くらいであったと思います、アルゼンチン・メンドーサに向かう街道の途中にありました。到着してその余りの綺麗な景色に驚いてしまいました。9月の春先ですが、雪は深く、ホテルの周りにはリフトがあり、立派なスキー場になっていました。日中、太陽は強く照りつけ、暑くなり、何と男性軍は上半身裸でスキーを楽しみ、ホテルのプールでは泳いでいる人まで居ました。野外でスキーと水泳が同時に楽しめるとは驚きでした。早速我々もスキーを借り、試してみました。久しぶりでしたらそれほど混んでいない大きなゲレンデで非常に快適に滑る事が出来ました。
282・インフレ
当時インフレは次第に加速して最悪の状態になり、90年2月には月84%,1年累計で4854%というハイパーインフレになりました。それまで30日に1回料金を変えていた店も15日毎、そして毎日変えるまでになって行きました。値段は公定ドル建て、そして平行ドルと呼ばれる実勢レート、そしてインフレ指数、などがあり、非常に複雑でよく考えて使わないと大損するような状況となっていました。ドルに関しては公定と平行の差が3倍にも開きました。ハイパーインフレですが、通貨の下落はよりひどいもので、ドルに換算しますと何でも安く感じましたし、下がっていました。また、お金は銀行にそのまま置いていると直ぐに目減りしますので、早く使うか、平行レートで闇ドルを買うか、後はオーバーナイトで運用していました。オーバーナイト運用というのは夕方運用に出すと朝には大きな金利が着いて戻って来るというものでした。
283・コロール・プラン
ブラジル駐在員時代の終わり近くになり、大統領選挙がありました。決戦投票に残ったのは新鋭のコロール氏と左翼のルーラ氏、二人とも庶民の味方を旗印にし、人気を集めました。両方の候補ともそうでしたが、政策を聞いていますと庶民にばら撒くお金は一体どうやって捻出するのだろうと疑問になり、どうしても実施不可能のように見えてなりませんでした。決戦投票で勝利したのはコロール氏、国民は若い大統領に夢を託しましたようです。コロール氏が大統領になり、初日に行ったのが預金凍結、流通する資金を止めて一気にインフレを退治するという荒療治でした。これで国の経済は麻痺状態となりました。米国の偉い経済学者に拠りますと商店は売れないので、安売りに走り、物価が下がるというような説明であったように記憶しています。しかしながらブラジルの人は先進国で考えるような行動を取ることは無く、値下げ等もっての他、売れないのであれば売らないという姿勢で経済は混乱したままでした。最近では心理経済学なる学問に注目が集まり、ノーベル賞を取られた学者も居ますが、もう少し南米人の心理を理解した政策を行うべきであったように思います。確かに悪性のインフレは無くなりましたが、その副作用は余りにも大きかったように思います。それまででも信用されていなかった政府ですが、庶民の懐に手を入れて奪い取る事を行ったので完全に信用を失ってしまいました。
284・ブラジルを去る
会社を辞めてパラグアイに移住する事にして、楽しかったブラジル生活も終わりとなりました。隣の国に引っ越すだけなので、それほど感傷には浸りませんでしたが、少年時代から長い間憧れていた国であるだけに非常に寂しかった記憶があります。出来ればもう少し住んでみたかった、この国でまだまだ体験する、そして勉強する事が残っていると思っていました。ブラジルに住んだ事により、パラグアイだけからの視点では無く物事が見れるようになった事は非常に良かったと思っています。しかしながらパラグアイに移住するという話を周囲に話した反応は非常に冷ややかなもので、サンパウロの友人達は「どろぼうばかりの国、嘘とインチキと汚職の国にわざわざ行くことはないのに・・」との意見が体勢を占めていました。パラグアイは隣国の人たちから厳しい評価を背に受けているのです。
285・パラグアイへ
パラグアイ・アスンシオン市に移住して最初に思ったのは「田舎」であるという事です。南米一の大都会・サンパウロからの引越しですから当然なのかも知れません。都市から村に来たような気分であったのですが、慣れて来ると今度はアスンシオン市が都会に感じるようになって来ました。サンパウロ市は経済の中心ではありますが、ブラジルの地方都市で首都になった事はありません、これに対してアスンシオン市は小さいながらも一国の首都であり、ある意味ではサンパウロよりも国際都市なのかも知れません。移住した当時は現在と違い、路面電車が走り、お昼時にはシエスタで街は静まり返っていました。経済的に悪い、悪いと言い続けられていますが、確実に進歩しているように思います。
286・パソコンを持ち込む
パラグアイに移住する際には電気釜等の幾つかの電化製品を持ち込みましたが、一番コストもかかり、大変であったのはパソコンでした。当時は現在のように日本語のウィンドウズを搭載すれば全てのコンピュータが使えるというような便利時代では無く、日本語を使用するには日本で製造されたコンピュータを持ち込むしかありませんでした。当時としては最新型の東芝ノートブック・パソコンを故障した際の予備の為に2台持ち込みましたが、価格は一台20万円くらいしたように記憶しています。問題は付属のプリンターで当時はリボンで印刷するものでしたが、このリボンはあっという間に無くなるのでリボンを用いず専用の感光紙を使用して印刷するようにしたのです。専用の感光紙は貴重なので印刷する時にはかなり慎重に行っていました。数年後には現在のように現地のパソコンで全く問題無く利用出来るようになり、このパソコンは使用する事もなくなり、故障と共に廃棄しました。一方、一緒に持って来た電気釜は今でも現役で活躍しています。
287・中国・北京
訪日したついでに両親と中国に行ってみました。とあるツアーに参加してのものでした。永住者、日系人として暮らす事に慣れて南米化している中、初めて行く中国も楽しみではありましたが、久しぶりに日本人としてごく普通の日本人と一緒に日本人として知らない国を旅行するのは非常に興味深いものでした。全部で15名くらいのグループでしたが、他の人達は決して自分達の囲いから出て行く事をしないのにはちょっと驚きました。有名な観光地を訪問して外国人専用の綺麗なホテルで美味しいご馳走を食べる事が出来ればそれで満足という様子に見えました。当方は時間さえあれば市場を覗くとか駅の様子を見たいと出掛けるのですが、他の皆さんは決して出ようとしないのですね。。中国に関しては当時はまだまだ貧乏な感じで北京駅にも田舎から出て来た人が沢山居ました。朝、北京駅まで散歩に行きますと駅前が人で足の踏み場も無いほど一杯になっており、皆ご飯を炊いて食べていました。風呂に何日も入っていない人が多いようですごい臭気と熱気、圧倒されてしまいました。夜外出するとものすごい数の自転車が電気も無いまま走っており少々不気味な印象がありました。万里の長城はテレビの通りで余り興味はありませんでしたが、天安門広場の広さその雰囲気には感動ものです。映像で見ますとそれほどではありませんが、それぞれの大きさには圧倒されてしまいました。市内観光で有名な観光地を見て、観光客相手の高級レストランで食事をするという旅行でしたが、バスの中から見える途中の街の様子が一番印象的でした、途中の街角で普通の人が食べている刀削麺を味わってみたかったですね。(最近、横浜中華街に専門店が出来たようですが・・)
288・中国・西安
西安で多少時間が余りましたので「市場に行こう」とか「回教の古い寺院に行きたい」とか「屋台に出掛けたい」等色々と提案してみましたが、全部他の方達に却下されてしまいました。あのような旅行をするのであれば、家でテレビを見ていた方が良いのにと思うのですが如何でしょうか?それでも定番のコース、秦の始皇帝の兵馬俑には驚きました。これもテレビで見てはいましたが、あれほど生きた感じの像があれだけ大量に2000年の時を超えて出現したという事に驚きました。またシルクロードの出発点となった西に向かう街の門の上で西方を見渡した時も感無量でした。西安は漢や唐等の都があった中国の古都ですが、現在も何か長安が生きている、そんな不思議な印象を持ちました。中国に関してはいつか機会があったら自由に観光都市では無い街を訪問してみたいものですね。
289・全米日系大会・アスンシオン大会
当地に来て間もなくアスンシオンで全米日系人大会が開催されました。現在も続くこの大会はメキシコとアルゼンチンそしてペルーの日系人が中心となってそれまで個々に活動していた南北米州全ての日系人の連帯を図ろうという目的で始められたものでした。2年一度各国の持ち回りで開催されており、このアスンシオン大会は第6回でした。それまで全くこの大会に対する知識は無かったのですが、想像以上に大きな大会で米国からアルゼンチンまで多くの日系人が集まり、盛大に催されました。主催団体はパラグアイ・セントロ日系で、当時はまた初代会長・故・森谷隆男さんが会長を勤められていました。開会式には当時のパラグアイ大統領である故・ロドリゲス大統領も出席され、翌日の現地新聞は一面トップでこの様子を伝えていました。日本からは来賓としてブラジルにも在住されたアントニオ猪木参議院議員が出席、大いに盛り上がりました。この大会は現在も続いており、99・サンティアゴ、2001・ニューヨークで開催されました。2003年にはボリビア・サンタクルスで開催される予定になっています。
290・再びコーラス
あるコンサートで知り合いの米国大使館に勤務されて知り合いの米国人の方(奥さんは日本人)が隣の女性に声を掛けてこう言うのです、「コーラスに参加しませんか?」、これを聞いてとっさに「コーラス?」と聞き返しました。聞けばこの方は元は音楽家を目指していたのですが、音楽で生計を立てるのは難しいので外交官になった、とのことでした。それで今は趣味でコーラスの指導をしている、というのです。男性でコーラスに興味が在る人はそれほど多くは無いと思って当方には直接声を掛けなかったのでしょうが、たまたまこの事を知り、早速参加しました。パラグアイではコーラス隊はあるのはあるのですが、そのレベルは日本の市民合唱団と比べると驚くほど低いもので、それまで余りコーラスをやろうとは思っていませんでしたが、この米国人のレベルは高く指導もしっかりとしていました。奥さんが日本人であり半分は日本人、半分はパラグアイ人で構成されていました。宗教曲、地元の歌、日本の歌等色々な曲に挑戦し、年末には自分達のコンサートを催していました。メンバー同士が結婚する事になった時には教会で歌いました。この方が転勤で他の国に行くまで、しばらくの間コーラスを楽しんでいました。
291・沖縄
当地に来てから縁あって沖縄を訪問しました。これまで愛媛県を最後に本土全県を訪問していましたが、この沖縄県だけが残っていました。これで日本全都道府県訪問が完了しました。実際に訪問して感じたのは、まず沖縄は日本であると同時に東南アジアであるという事です。別のページで書きましたが那覇市からは中国・韓国などの諸都市の方が東京よりも近いのです。そして雰囲気がパラグアイに似ているということです。緯度が南北反対ではありますが、ほどんど同じである為か植生が似ていて見た感じがよく似ているのです。その上に美しい海がある。本当にすばらしい場所であると思います。料理も本土のものとは異なり、豚料理はすばらしいものがあります。気に入ったのは豚足料理の「アシテビチ」昆布と醤油で煮込んだもので、美味しかったですね。なお、沖縄に関しましては、2003年に再訪し、その時にはデジタルカメラを持参し、沖縄としてアップしております。そちらをご覧下さい。
292・韓国再び
韓国には、それまで数回訪問していましたが、、訪日のついでに行ってみました。それまで日本に住んでいた時には韓国に行くのは「行くぞ!」と気合を入れて旅行していましたが、当地からですと近いというのか旅行の中の旅行で割と気軽に訪問する事が出来ました。実際に飛行機に乗りましても上がったら直ぐ降りるというくらいの近さで遠く南米から来た者にとっては日韓は実に近い隣国である事を実感しました。ソウルの南大門市場、東大門市場を歩いていますと、学生時代に見た時と同じような光景もありましたが、市内は非常に綺麗に整備されており、今昔の感がありました。ロッテなどの主なデパートもぐっと垢抜けた感じに変わっており、東京と区別がつかないほどでした。当地でも韓国料理を食べていますが、やはり本場のは一味違うと感心しました。ビビン・バップ、参鶏湯等は美味しかったですね。
293・板門店
一度「板門店」を訪れてみたいと思いホテルの観光コーナーに行きますとホテルからの一般ツアーの中にごく普通にありました。朝の8時にごく普通の観光バスでごく普通にホテルから出掛けて行きましたが、参加出来るのは外国人に限られており、韓国人の参加は認められていませんでした。途中ソウルから北に延びる鉄道の分断された終点を見学し(現在は北に向けて工事中)非武装地帯に入ると「何があっても一切文句を言いません」という契約書にサインする等、ツアー用の演出もあり、少々緊張しました。ある程度走るとテレビ等でお馴染みの板門店に在る会議場に到着しました。向こうに北側の板門閣、そしてこちら側には自由の家、中央に幾つかかまぼこ上の建物があり、当たり前の事ですがテレビの通りでしたが、想像していたよりはずっとシンプルな作りでした。ツアー客は米軍、正確には国連軍の護衛の元、この建物に入りテレビ等で見慣れている会見場を見学しました。テーブル中央にあるコードが南北の境界になっていて、建物内部であれば自由に北側に入る事も出来ました。そして、自由の家に登り北側を眺めました。北側の宣伝用の横断幕、巨大な国旗、剥げた山々が見えました。近くに在るという高麗の古都である開城が見えるのではないかと期待していましたが、これは無理でした。宣伝用の建物とあの朝鮮風の強い口調のプロパガンダが大きな拡声器から流れて来て、軍事境界線である事を実感出来ました。ソウルまでの帰途は高速道路を利用して真っ直ぐに帰るのですが、これが1時間くらいで到着してしまいました。ソウル市がこの軍事境界線に非常に近いという現実を改めて実感しました。韓国を訪問される方にはお勧めの場所ですね。北は外貨獲得の為にその内に外国人に限り板門店から開城に行くツアーを始めるのではないかと期待しております。
(写真:板門店には緊張が漂う)
294・日食
当地に来て以来色々な出来事がありましたが、このページを立ち上げる以前での一番の見ものは何と言っても「日食」です。20世紀最後の皆既日食が丁度パラグアイを中心に見られるというのでかなり注目されました。1994年11月03日、アスンシオンを含めかなり広範囲で日食が観測されました。日本からも明星大学のチーム、アマチュアの天文ファンの方等多くの方が日食観測の為に当地を訪問されました。当日は平日であったのですが、仕事等は止めて皆で天体ショーを見に行きました。明星大学がキャンプを張ったバポール・クエという場所で一緒に観測しました。観測をすると言っても太陽を見るのですから特に望遠鏡を用いる訳でも無く、空を見上げるだけでした。当日は天候にも恵まれて日食を見る事が出来ました。かなり暗くなると想像していたのですが、丁度夕方くらいの暗さになるだけでしたが、野鳥が夕方になったものと錯覚しかなり慌てていました。完全に月に覆われると黒い太陽となり、コロナが鮮やかに見えました。そして何といっても美しいのは太陽の光が出る瞬間、ダイヤモンド・リングという光が出る一瞬です。ほんの数分の天体ショーでしたが、実際に見ますと写真やテレビとは違い本当に感動的なものでした。地球の反対側からわざわざ来るのも納得しました。日本の方(西崎さん)が当日の様子をページにアップされています。当地では日食に対して恐怖を抱く人も多く折角の機会なのですが、見ないで家の中に閉じこもっていた方も多かったようです。
295・全米日系人大会・リマ大会
95年 7月にリマで開催された全米日系人大会に参加いたしました。この時は藤森さんが大統領であった時代で、大統領の任期中に行おうというので開催されたものです。開会式には勿論、藤森大統領、そして青木大使が出席しました。お二人共、開会の祝辞を述べられました。大いに盛り上がった大会で、スケジュールの中に大使公邸にての晩餐会というのもありました、次の年には人質事件が起き惨事の場所となるあの大使公邸です。ペルー日系はリマに集中していること、沖縄県出身者が多い事、移住の歴史が長く多くは戦前移住であり、現在は2・3世が中心になっており、日本語が余り使われない事など同じ日系社会でもパラグアイとは随分違うのには驚きました。
296・クスコ
全米日系人大会に行く際にせっかくなので、パラグアイのメンバーでクスコ観光に出掛けました。クスコはインカ帝国の都がある場所で、かなり高い場所にあり、高山病に罹る危険性もあるとの事でしたが、幸いにも多くのメンバーは元気に観光しました。多くの観光地の写真は行くとそこのごく一部で全体の印象は全然違うという事がよくありますが、クスコの場合には街全体、全てが絵葉書や観光ガイドにある写真の通りでした、これには驚きました。インディオの人達が集まる市場等壮観でした。ただ、写真と違うのは「臭い」事でした。乾燥しているので水が貴重なのでしょう、余り体を洗っていないようで、臭いがきつかった。空中都市として有名なマチュピチュの遺跡にも行きましたが、写真や映像で見た通りでこちらはそれほど感激という程ではありませんでした。
297・ジャズと和太鼓
国際交流基金の事業の一環として当地でジャズの山下洋輔さん、和太鼓の林英哲さんが中心となって当地でコンサートを開催しました。当初我々日本人でさえもジャズと和太鼓の組み合わせに少々驚いたものですが、当地の皆さんは日本人のジャズと日本の太鼓というので奇異に思われ、余り関心を持たれていないようでした。2日間の公演でしたが、最初の日の公演では観客が大フィーバー、そのすばらしさに魅了されました。そして翌日は大評判となり、超満員の大盛況、勿論大いに盛り上がりました。また、公演の先立ち、ある日本人のお宅で山下洋輔さんの歓迎ホームパーティーがあり、そこで山下さんがピアノを弾いたのですが、これは本当にすばらしいものでした。
298・衛星テレビ
日本からの情報と言いますと、この当時は短波ラジオか一日遅れで来る新聞でした。新聞は東京とほぼ同時にニューヨークで印刷され、そこから航空便で来るもので、高価ではありましたが、ホットな情報源としては非常に貴重なものでした。インターネットの登場とほぼ同時期のこの頃、当地でも衛星でNHKを見る事が出来るようになりました。画像は非常に鮮明で、聞くところによりますとデジタル画像であり、画質は全く落ちておらず、日本で地上波で見るよりも良い程であるという説明でした。この日からNHKがタイムリーに見る事が出来るようになりました。最初は時差で多少変な感じもありましたが、次第に慣れてしまい、夕食時の楽しみは朝の連続ドラマという事になってしまいました。それ以降現在に至るまで午後7時くらいから午前1時くらいまでの6時間までの番組を毎日、留守録画にしておき、帰宅してからゆっくりと見るようにしています。なお、NHK国際放送の内容はほぼNHK総合テレビと同じです。再放送が多いのですが一応24時間放送しています。これで日本がぐっと近くなりました。
299・当地でパソコンを買う
パラグアイに来て一番嬉しかったのはウインドウズの進歩でした。日本語を使う為にはコンピュータは日本しか持ち込むしか無い、という事が常識であった時代、多くの人から「南米では日本語無しでパソコンを使えるようにした方が良い」と何度もアドバイスを受けました。しかしながらスペイン語のコンピュータは用語もよく分からず、計算ソフトのコマンドも全く違い、非常に効率が悪く、日本から持ち込んだノートブックのパソコンを大事に使用していました。そこにウインドウズでDOS/VというOSが開発されて、これを積めば全く問題無く日本語が利用出来るという話を聞き付け、日本に依頼してこれを入手、実際に搭載してみますと確かに日本語で利用出来るようになり、当地のパソコンで何でも出来るようになりました。日本ではその後小型化が進み、場所を取らない薄型が主流となっていますが、当地は空間は幾らでもあるので、未だにデスクトップタイプが主流となっています。ノートブックのパソコンが普及するのはまだ先のように思います。
300・インターネットを始める
当初パラグアイのインターネットサービスはメールだけの利用でした。国立大学がプロバイダーを行い、そこと契約するしか方法が無く、お役所仕事的な感じで余り普及していませんでした。雑誌等ではインターネットに関する情報が溢れており、他の南米諸国ではサービスが始まっており、非常に羨ましかったのをよく覚えています。それから間もなくして民間プロバイダーが登場して利用が可能となりました、96年の年末でした。当時は今のように情報が溢れてはいませんでしたが、それでも新聞を始め色々なページがリアル・タイムで読む事が出来る様になり、感動した記憶があります。でも南米の情報はほとんど無く、パラグアイの情報は皆無で、それならと自分でこのページを立ち上げたのが97年 3月です。それ以降の出来事はこのホームページの他のページをご覧下さい。